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Accumu Vol.6

有為転変 学院の設備更新に際し人材の育成を思う

東京大学名誉教授

京都コンピュータ学院情報システム開発研究所所長

理学博士

小亀 淳

世の中の変転にはいろんな契機や節目があって,それ以後,良くも悪くもなって行くものである。多くの場合は,あとから振り返って見てはじめて,ある過去の一時期や状況が,変転の徴候だったことに気付く。そして,往々後の祭りの思いをする。

まさに変転の節目にさしかかっているとき,これをいちはやく感知・認識し,より良い方向に向けるための具体案を策定し,全力を尽くすことが,発展・進歩に必要である。なぜなら,変転の節目というのは,好転の兆しのこともないわけではないが,停滞や落ち目への予告であることが多いからである。『有為転変(ういてんぺん)』が,世の移り変りの中でも,無常観をともなう凋落のにおいを強く持つのも,これが仏教用語だからではあるが,その間の事情を表していると見ることもできる。

変化が急なときは,だれしも解りやすいが,じわじわ進行するときに,その傾向に気付き,原因を分析することは存外にむつかしい。とくに,変転が大勢に影響ない単なる揺れ動きなのか,自然には戻らない歩みの始まりか,どこから先が分かれ目か,常人に見抜くことは不可能に近い。従って,ときには思い過ごしかもしれない予防策を構じることが必要になる。

わが国では,今世紀半ばの敗戦のどん底状態から今日の隆盛まで,ひたすら向上の一途をたどってきた。しかもその上向き行程が半世紀にも及んだ。ということは,一世代(30年)をはるかに越える歳月であり,物心ついてから一度も落ち目を経験していない世代が,今日の日本を支える重任を担っている,ということである。

その人達の実力を過少評価するつもりはないが,こうした変転の兆しを捕らえることは無論のこと,存亡の危急といった非常事態に臨んで,はたして相応の対応ができるであろうか。少々長続きの不況があったところで,この国の衰退など信じられないという人々にも,わが国の進歩が部分的にもせよ,世界のトップに達した現在,追いかける目標の日々の消滅は,重大な転機なのである。現況を持続しさらに発展させるために,先見をもって今を生きているであろうか。疑問を感じないではいられない。

例えば教育畑に目を向ければ,相変わらすの理系志望者の減少の理由が”実習や実験などのため,文系よりも勉強がキツイから”ということにあると聞くに至っては,子供や若者の教育は,学校や家庭環境で,いったいどうなっているのかと思いたくなる。

私はたまたま理系の道を歩んだが,文系の道が理系の道より「楽だ」などとは,学生時代から夢にも思わなかったし,文系に進んだ友人たちにも,楽な道を選ぶ思いはなかったはずである。それがそもそも旧人類的バカの証拠と,今の人は笑うのであろうが,大学や専門学校は,専攻の科目の人気の違いなどによって入学の難易はあっても,入学後の勉学(それは,社会人としての生きざまにつながる)に苦労の差があるなどと,一体誰が若者に思わせるようにしてしまったのだろう。

ある社会や国が隆盛に向かうのは,良かれ悪しかれ,明確で特徴的な『共通目標』や『指導原理』が存在するときであろう。これを失うと,組織も人心もどんどん細分化・矮小化に向かうとともに,非協力化・無力化をもたらし,衰亡の道をたどる。まさに『エントロピー増大の法則』を地で行くものである。昨今,国の内外にこの手の実例を見出すのに苦労はいらない。

理系離れも,原因はなんらかの指導原理の喪失であろう。その証拠に,この期に及んで,学生集めに考えることの基本は,勉学の「楽しい」環境造りに置かれがちである。その発想は,”タノシクお絵描きしましょう”の幼児保育環境の延長に過ぎず,手法は観光や娯楽の客引きと軌を一にするものといわねばならない。要するに,客(学生すなわち一人前とはいえない人達)のお好みに迎合する態度である。そういえば,大学がレジャーランドと呼ばれて久しい。裏返せばどこかに,意識せず相手を基本的に軽んじているところさえ感じられ,教育あるいは勉学という責任ある人間形成の担当とは,まったく次元のちがう姿勢というほかはない。

それも,理系離れの予防策というよりは,文系もふくめて,いやむしろ多数を占める文系志望者目当ての,学生集め対策の現況であり,人気の少ない理系に学生を呼び戻すどころのさわぎではないというのが,学齢人口減少の昨今なのである。

考えてみると,若者の中には,昔に劣らず向学心に燃える人達が,かならずや居るにちがいない。たまたま世間の甘やかしに慣れ過ぎて,自立心の目覚めに遅れをとっているだけの人もいるであろう。生命体として若者の本心は,迎合されるのを喜ぶことにあるのではなかろう。まず,「勉学」は決して「楽学」そのものになりえないことを,生涯の生きざまと重ねて,”たのしく”理解させるべきであろう。少なくとも,高校卒業以前に,できれば中学生時代に。

「日本には塾があって,頑張り人間は学校よりそちらを重視している。義務がなければ学校なんかへは行きたくないのが本心なんだ。いまどきの学校は,教師も含め,もともとやる気に欠けるものの溜まり場なんだよ」という,いささか偏った厳しい声も聞こえてくるような気がする。仮にそうとしても,塾は教育機関というよりは,受験戦争に勝ち残る戦争蟻の技術教習場ではないかと思うものの,その戦争蟻さえも理系を敬遠するから,問題は小さくないのである。

いずれにしても思うのだが,理系ばなれの正しい解決策は一つしかない。その教育内容をより充実し,学ぶ意欲を刺激するものとするのは当然であるし,校舎や設備はいくら立派にしてもかまわないが,他方,文系に進んでも楽はできない勉学環境を,文系教育者の責任で考え,用意することである。少なくとも,勉学上の試練で理系にひけをとらさない指導が必要だ。就職後,給料に格段の差をつけるなど,社会と一体になって『楽あれば苦あり』を思い知らさせることもあるが,これは教育としては体罰,社会としては懲役のようなもので,上策とはいえない。のみならず,理系人材だけでは決して社会の発展を見ることはできないのである。文系の中に,理系以上に鍛え上げられた,出来る人材を必要とする。

日本のように資源も食料もエネルギーも乏しく,台風の通路,地震の巣窟,狭い国土に多いのは人間だけ,という悪条件にまみれた国が成り立って行くためには,技術立国・加工立国,つまり知性立国しかないことは,誰もがまず思うことである。かなりの労苦,ときには他国人のやりたがらない種類の頑張りなしには,栄えられないのは自明であるばかりでなく,現状維持もおぼつかない。

若者の理系離れの現象は,いま心配されている以上に,最初に述べた,「日本の将来を占う転変の徴候」として,超重大な前触れではないか。あわせて,このままでは文系の多くが,理系から逃げだしただけの(だれよりも本人がそう思っている)ボートピープルになる,という可能性にも,おとらず意を配るべきである。

■ ■ ■

さて,周知のように,情報処理機としてのコンピュータそのものや,情報工学,通信を含む情報処理技術など,広く情報科学の分野は,関連分野の技術革新の成果をただちに反映し,進歩と変遷の急速さにおいて,今世紀,他に例を見ないものである。

ことに経済躍進の時代には,関連企業はもっぱら人集めに狂奔し,ソフトウェア・クライシスという言葉まで生み出されて,人材(というより頭数)不足を,石油をはじめとするエネルギー危機に対比させて,警鐘を打ち鳴らし続けたのである。

この危機は,とくにプログラマーの絶対数不足の予想において喧騒され,西暦何年には何百万人のソフトウェア技術者が不足するといった試算が,危機感の根拠とされた(例えば,1986年の予測で西暦2000年には100万人弱不足)。

その一方で,『プログラマー使い捨て』・『プログラマー30歳定年説』などという,人間をまるで道具視するような,聞き逃せない暴言が,わが国では当然のように囁かれるという無軌道ぶりであったのである。

しかも,これらのプログラマー問題に関しては,バブルがはじけ始めるのと期を一にして,「プログラマー不要?説」なるものが生まれ始める。この説の真意や真偽が確かめられないままに,世は長い不況に落ち込み,企業が新入社員をむやみに採ることをやめざるを得なくなってしまった。今こそ,ソフトウェア・クライシスが叫ばれて当然と思えるが,そんな声は耳を澄ませても聞こえてこない。不況という予想外の伏兵が現れたので,息を飲んでいるかに見える。

一方,コンピュータあるいは情報処理に関する若者の人気も,時代と共に敏感に移ろっている。

コンピュータが珍しかったころは,周辺機器に触れるだけでも胸が躍ったであろう。コンピュータを使える人が少ないにもかかわらず,時代は情報化を叫び,その背後にコンピュータが厳として控えていそうな気配は,憧れや努力目標としてのコンピュータ習熟に,若者をして躊躇なく志向させた。正体のはっきりしたものより,得体の知れないものに魅せられるということかもしれないが,この時代は,まだまだ未知のものへの挑戦が,多くの若者の心を駆り立てていたことが解る。

世の企業も,コンピュータ用プログラミング言語の文法を覚えただけの卒業生を,どんどん採用し,若者の期待に応えてくれた。むろん使いものになるためには,効率的な社内再教育が必要であったことも少なくなかったであろう。ともあれ,コンピュータ教育界と業界の,懐かしい蜜月であり”古き良き時代”であった。とくに専門学校においてしかりである。

ところが業界発展の過度の激しさのあまり,一般的に言って,学校・企業内での真の人材の育成がおろそかになったようである。頭数だけ揃えて,なんとかしのいでゆく仕事というのは,いつかは廃れる。次の時代を背負う新しさを,生み出す余裕も環境もないからである。人間(プログラマー)の使い捨ての発想も,実はここから生まれたと思われる。仕事を通じて人そのものを進歩させるリニューアルがほとんど考えられていない。

人を成長させるためには,仕事の上で”しごく”ことも必要だが,ちょっと厳しく指導すると,すぐ辞めてしまう新人の増加を嘆く声を聞いた。大体,しごくという言葉が,人権蹂躙の響きすら伴う用語となってしまっている有様である。しごくは別としても,末期的な社会は,建設的な用語に否定的なニュアンスを付加し,まず用語をスポイルしてから,行動そのものを消滅させる方向に向かうもののようである。

日本の新興情報産業を引っ張ってきたのは,”潰しの利く”大学卒業者たちのパイオニヤ的尽力である。使い捨ての発想は,その日暮らしの突っ走りに追われ,現在に至ってなお,後輩をその道の生え抜きのプロに鍛え上げてゆく方法論も体制も,企業内に確立されていない実情を窺わせるものである。また,その道の雛を送り出すべきは大学であるが,基本的に西欧で確立された学問の伝授を出発点とするわが国の大学では,新分野むけ専門的人材の大量教育など,その対応が最も遅れる機関なのである。せいぜい,社会で何をやらせても一応の成果はあげる,一流の?ゼネラリストの送り出しが,手堅い線である。

こうしたなかで,一時期は間隙を埋めるのに珍重された専門学校卒業生ではあるが,企業の中でゼネラリスト出身者たりえず(個人の能力はともかく,世は一括でそう見てしまう),使い捨ての一番候補にあげられる危険性を多分にはらむものではあった。

この現実を,年端もいかない中学・高校生が見抜いたせいではないと思うが,わが国では,コンピュータヘの若者の関心は,とくに専門学校志向においてブームを過ぎ,急速に下向きになった。多分,コンピュータそのものの急速な高性能化,小形化,低価格化による,爆発的な普及によって,ひと頃の珍しさが失われたために,若者のコンピュータに対する好奇心・向学心が冷却したものと思われる。おしなべて”もの”が普及をとげると,尋常以上の関心を持つのは,一握りのマニア(近頃は”おたく”)に限られる。

加えるに,社会全体が不況に陥ると,それまで躍進の一途であった情報産業の頓挫は他より一段と目立つのか,不人気に追い討ちを掛けているように見受けられる。

若者に人気が薄れた理由をもう少し具体的に言えば,推測であるが次のようになるであろうか。

かつてはコンピュータを動かすにはプログラミングができることが絶対必要と思われ,その技術習得に魅力とやりがいが感じられた。ところがコンピュータの普及とともに,あらゆる分野での仕事用に,それぞれの応用ソフトウェアが溢れるほど開発され,自分でプログラミングする必要も余地も,ほとんど考えられなくなった。それも,ゲーム・ワープロ・表計算の道具としての擬態が,コンピュータのイメージの代表のようになりすぎたきらいがある。もしかすると,近頃の若者は,「ソフトウェアはハードウェアと違って,自分で作ることができるんだよ」ということさえ知らないし,知ろうとしないのではないか。かろうじてゲーム機に示される古くて新しい興味くらいが,いまや『積極的関心』の貴重な生き残りであろう。

コンピュータのこのような捕らえ方は,素人として使う「ユーザーの立場」からの見方に徹しているからである。自転車と同じで,乗るための道具としてしか多数は見ない。いまさら不備の改良や,二輪なのに走り出せば倒れない不思議を考えないのと同じといえる。コンピュータも,限られた独特の高性能(速さ・正確さ・大記憶容量,またその噂)に幻惑されるあまり,ほとんど完成されてしまった道具と見るから,逆に魅力を失うのかもしれない。

実は,進歩の速さは確かにめざましいのだが,現在のコンピュータには自転車並の完成度もなく,発展途上の道具である。買ってくれば即満足して使える代物ではない。実際にコンピュータを使ってみれば直ぐ判ることだが,自転車の便利さ・使い易さに匹敵させるだけでも,まだまだ改良に改良を重ねなくてはならない。せいぜい,我慢してじょうずに使ってやれば,とてつもなく便利なこともある,くらいが正当な評価と考えた方が間違いない。

「ユーザーの立場」から眺めれば,だれもが買える買い物をしてしまえば,後は使い方に馴れるだけが問題という,なんということはないコンピュータになってしまったかもしれないが,利用者としてではなく,『提供者としての開発的技術者・科学者が,依然として,今後益々,必要』なのである。こうした仕事に魅力を感じない理由が,ものを造る(あえて創るとは書かない)のが理系,造られたものを使うのが文系,と思われていることにあるのなら,ここにも理系離れのクライシスが立派に存在する。[断っておくが,ソフトウェアの開発は,要するに単純なコンピュータ用言語(文法)の理解と,仕事のやり方・やらせ方(アルゴリズム)解明能力がすべてで,必ずしも理系の仕事と限定できない。あとは,『葦のずいから天井のぞく』式のコンピュータの限られた能力への同情的協力と,考えごとに対する忍耐力が物を言う世界である。アイディアが必要なのは,他の仕事でも同じこと]

昨今の風潮(理系離れを教育の力で阻止していない現状)のもとでは,小・中学校でのパソコン教育がおいおい軌道に乗るにつれ,ますますコンピュータ開発技術者離れを加速するという,悲喜劇的な逆効果の発生も,あながち杞憂ではない。コンピュータ教育が,もろもろの使い方,つまり道具としての使いこなし方習熟に偏重するのは見え見えだからである。

このことは,コンピュータがハードウェアとソフトウェアから成っており,使いこなす対象の大部分は,実は目に見えないソフトウェアで,しかもソフトウェアの開発などは,理系文系を問わず可能な知的作業であることをば,子供達の興味の対象に抱かせる教育こそ目標とするべきなのに,教えるほうの理解が足らないと思われるからである。

また,使い方の教育に時間がかかり過ぎるのは,一つはコンピュータ利用のためのソフトウェアが,目に見えないからいいようなものの,人類の文化としてはあまりにも低レベルにあることに起因している。なにしろ,発明されてからせいぜい五十年にしかならない。このことは,コンピュータに付いているマニュアル(使用法解説書)の解りにくさが,コンピュータそのものの難しさと思われがちだが,実は単なる独善的な悪文のせいに過ぎないことと,好一対をなす事実なのである。「これからの人間は,コンピュータ・リテラシーを身に着けねばならない」というが,人間のリテラシーが何であるかを,身に着けさせねばならないのは,むしろ「これからのコンピュータ」の方である。そうした現実を,批判の目で見抜ける教育が望ましい。

なぜ低レベルを抜けきれないか,分析を進めて行くと,現在の”ノイマン式コンピュータ”の特徴である,「逐次命令実行」の機能に制約を受けるまだるっこさが,最大の原因らしいと誰しも気付くのであるが,これ以上深入りしないことにする。

例のソフトウェア・クライシスも,1つ2つのプログラミング言語が操れるプログラマーの数不足の危機ととらえず,コンピュータの限られた機能を存分に活用して,何に使うか,何をやらすか,そのためのアルゴリズムをどう解くのがベストか,などの能力を持つ人材の不足,と受け止めてこそ意味がある。これは,将来何万人足らなくなるといった問題ではなく,すでに足らないし,わが国では昔から少なすぎるのである(そのような技術者をSE=システム・エンジニアという人もあるが,日本でのSEは往々サービス・エンジニアかと揶揄られるほどなので,SEという単語は使いたくない)。

さらに,真のソフトウェア・クライシスは,汎用計算機などのOS(オペレーティング・システム)にみられるように,ソフトウェアが膨大・複雑になり過ぎて,並のソフトウェア技術者が全貌を理解し改善することはおろか,保守・維持することすら困難になりつつある現状の,延長上に待ち構えている差し迫った危機ととらえるべきであろう。

話を戻すが,ハードウェアの開発はさておき,ソフトウェアの開発は理系文系を問わず携わることができる,今世紀が生み出した『知的な職域』なのである。しかも,未完の領域であり,解決するべき問題がゴロゴロしていて,やる気のある若者にとって,決して魅力に乏しい対象ではない。

ハードウェアの一部では世界のトップレベルに達したが,ソフトウェアでは10年アメリ力に遅れている,という言い方は以前からある。もしかすると,この開きは,馬力をかければ追い付けるといった性質のものではないのである。最近,とくに『W***3.1』が爆発的に普及を始めてから,それにともなう各種海外版ソフトウェアの波をかぶらされると,まず人海戦術がらみの日米ソフトウェア開発能力競争は”目にもの見せられた”と,思いたくなるほどである(必ずしも相手の出来具合を褒めているわけではない)。少なくとも,ソフトウェア開発と,その基盤としての教育における日米の違いは,『距離』でなく『方角』の差のようである。今後,どのあたりに主眼を置くべきかは,おのずから明らかである。

もしかすると,ソフトウェア技術が理系の仕事と思われているわが国では,文系の優れた人材の関わりと没入が少ないことが,質の高さに越えられない障害をもたらしているのかもしれない(この思い付きの真偽のほどは,もっと深い考察と傍証が必要である)。

誤解されないように断っておきたいが,W***が上出来のソフトウェアと思っているのではない。このOSについては,私もさわり初めで正確な論評はできない。しかし,初期印象を大切とするならば,建造物に例えれば,まさにアメリカ版東照宮で,戦後全世界が目を見張ったような,ル・コルビュジェの近代的・機能的簡素の美しさのインパクトとはほど遠い。

現代の文化構築の一要素として,複雑への非帰納的アプローチが数え上げられそうな時世であることは承知している。自然科学においてもこの動静がある。私も必ずしも”シンプル イズ ビューティフル”のみ信仰の亡者ではないつもりだ。だが人間の道具としての機械には,なにより明快な機能が大事である。虚飾や迷路は少ないほうがよい。W***はビラビラの飾り立てや,二次三次的機能への分岐が多すぎはしないか。そのせいで,スカッとするような明快さがないように私には思われる。荷物の積み下ろしに便利だというトラックを注文したら,豆電球満艦飾の浮世絵付き新車が届けられたようなものだ。もっとも,旅客機の機体の背中に,くりからもんもんの刺青(いれずみ)よろしくクジラやタコの絵を描き込み,嬉しがって飛ばす世の中では,国の内外を問わず,これが正調な世紀末の動向なのであろう。

憎まれロはさて置き,W***の余剰・おまけの多さは,対抗機種を意識しすぎたせいもあろうが,まさに”おたく”製品の見本のようなもので,多大の努力には感心するが,今後の文明がすべてこのような造作で満ち溢れるようでは,人類の未来は決して明るくも楽しくもない。長所まで覆い隠されるほどに”行き過ぎた”道具を使いこなしながら,情報処理法の神髄を迷わずマスターせねばならぬ学生の立場を,しあわせの座に導かねばならぬ教育は,妙に大変なのである。もっとも,現代の学生は,「ご心配には及びません」と,平然と微笑むかもしれないし,世の動静に合わせ,これしきのことにたじろがぬよう,指導する用意はある。

されど災いは転じて福となすべし。考え様によっては,わが国にとって,今がまさに独自性をあみだすチャンスである。「『美しい機能』とはこんなもんだ」というパーソナル・コンピュータ用のOSを,文化の伝統にかけてこの日本で開発してほしいと,白昼夢かもしれないがつくづく思う。さしあたり,過去・現在・未来の日本文化を担うと自負する京都の企業・学府が,責任を感じるべき目標であろうか。W***は反面教師として,教育用にも,有効に生かせるはず,と愚かにも考えるのである。そして,若者に大事にしてほしいものは,ものを使いこなす喜びよりは,造り出す歓びである。

(W***に対する偏見と逆説に満ちた過激な意見は,あくまで個人的なざれごとの類いで,学院の実力ある教員たちの評価ではなく,ましてや学院の見解ではないことを,念のためお断りしておく。)

■ ■ ■

京都コンピュータ学院では,1994年4月から,学院の教育用コンピュータシステムを一新した。この不況の中で,思い切ったことを,と羨望あるいは危惧されるかもしれないし,また,学生集めの花火か,と冷ややかに眺める向きもあるかもしれない。

ざっくばらんにいえば,本稿も,新しい設備を使って何かできるのか,何を教えるのか,そのアイディアと構想を書け,というのが編集部からの要請である。

学院の設備更新は,1年以上をかけてスタッフ全員が教育につき検討を重ねてきた結果である。宣伝効果だけを狙った便宜的なものでない。これからの情報関係の技術者として,何をマスターさせるべきか,論議を重ねたし,今後も続けられる。いわば,学院の情報教育に対する良心の,総勢をあげての結実の一つである。

これこれの設備で,あれこれの教育をします,できます,という文章が作れないではないが,実は情報関係の専門学校は,生き残りを懸けて熾烈な戦いの最中にある。秘策は漏らしたくないし,また,嘘はつきたくない…と申し上げておこう。また,学院の中でも,人それぞれに必死の思いと立場で,理想の教育と現実の新システム活用との整合に取り組んでいる。その成果と,成果を踏まえた将来への進展の確かな手応えは,姿を見せるのに一年を要するであろう。

ひとこと言っておきたいのは,われわれは設備の新しさに比重の多くをかけ過ぎてはいない。というのは,来年の春には,もはや決して新しくはないのがコンピュータ界の常である。

戦後未曾有の不況続きのもと,学齢人口の減少にもめげず,理系・技術系離れの若者の呼び戻しと,暴走もしかねない情報処理機の展開のゆらぎを視野にいれつつ,大学との競合を克服して,必ずややり遂げねばならない「わが国における専門学校としての,真の情報処理教育の樹立」は,決して容易なものではない。しかもこの何年かは,学院にとっても開闢(かいびゃく)以来の,何重もの節目にあたっているのである。大きくも小さくも,『有為(うい)転変』が世の習いであれば,無常観に流されるのでなく,懸命の努力すなわち有為(ゆうい)をもって,転変を好ましい方に向かわしめねばならない秋(とき)である。

[追記]

本文の中で,しばしば文系と理系という言葉を使ったが,私は,人間の能力に理系と文系の区分けを設けるのはおかしいと思っている。せいぜい嗜好の問題と考える。しかし,論旨をなるべくはっきりさせようと思い,世の通念に便乗してそのまま使い分けた。

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小亀 淳
Jun Kokame
  • 東京大学名誉教授
  • 理学博士
  • 1947年京都大学理学部物理学科卒業
  • 京都大学科学研究所研究員,京都大学助手(化学研究所),東京大学助教授(原子核研究所),東京大学教授(同),国士舘大学教授(情報科学センター)を歴任
  • 元・京都コンピュータ学院情報システム開発研究所所長

上記の肩書・経歴等はアキューム18号発刊当時のものです。