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Accumu Vol.3

初代学院長の思い出 真の優しさ

株式会社リクルート西日本教育機関広報部部長

弘中 實

私が,初代学院長とお会いしたのは,今から13年も前の初秋の頃でした。その日,洛北校の応接室で,先生は学院の歴史,現状,今後の展望等を丁寧に教えてくださいました。学院と私どもの会社とのお付き合いは,ほぼ進学ブックの創刊以来でありましたが,こうして担当が交代するたびに,時間をかけて学院の説明をされるのが,先生の流儀であったように思います。「君も学院の一員,精一杯お互い協力し合おう」という先生の情熱,心配りがひしひしと伝わり,感激させられました。先生のお話の中でも,とりわけ,学院の将来を語られる時の嬉しそうなお顔が印象的でした。

何度かお会いするうち,「先生は,この世のすべてを知りつくし,私の何もかもを見透しておられるのではないか」と思うようになりました。商売色の強いものや,短絡的な提案をした時は,「もっと学院のことを勉強しなさい」「会社の商品づくりに自信を持ちなさい」と言われているようで,大変反省させられました。決して直接叱らない先生だけに,余計に考えさせられることが多くありました。あの鋭さと柔和さの相反する輝きをもたれた眼は,私にとって学生時代のお寺めぐりに垣間見たお坊様の眼と同じでした。「どうせ,見透されているのだから,肩肘張らず,自然体で話そう」と開き直った時,大変気が楽になったのを覚えています。

生涯忘れられない事件が起こりました。担当して3年目の10月のことです。夜9時頃帰宅し,くつろごうとしていた私に,営業担当のY君から「長谷川先生が社長を連れて学校に来るよう言っておられます。かなりお怒りです。」と興奮気味の電話が入りました。原因は,当社の原稿上のミス。しかし,これまでもミスについては,寛大に対処していただくことが多かっただけに,『社長を連れて』は不気味でした。とにかく先生に会うために,10時過ぎ,神戸の自宅から洛北校に向かいました。何とも言いようのない気の重さと,晩秋の夜風の冷たさは,今でも鮮明に覚えています。午前0時に学校の門をくぐりましたが,先生の居所は不明で,ひたすら応接室で待つしかありません。ミスヘの対応,社長不在の言い訳など,Y君と打ち合わせ,待つこと二時間。ドアが開き,あの独特の太い声が耳に飛び込んで来ました。「やぁ,こんな時間にご苦労様。もう,あんなミスはいかんョ」。そうおっしゃったきり先生は,新しく導入するコンピュータの話を始められました。子供のようなまなざしで語られる先生のお顔を,2人はあっけにとられ見ているしかありませんでした。コンピュータの話題と,その時依頼されたリーフレットの打ち合わせを終えた時,時計の針は午前4時を回ろうとしていました。帰リのタクシーの中で,なぜ先生が一言もミスを責めなかったのか,2人で話し合いました。当時,学院の内外では,種々の困難な問題が山積みされていたようでした。珍しく,先生がグチをこぼされたり,弱気になったりされる場面に接してきた2人が,そこに『お怒り』の遠因を求めたのは間違っていたのでしょうか。Y君を豊中の自宅で降ろし,神戸へ向かう途中,私は『先生の仕事量は,人間の限界を超えている。このままではお身体はもたない』と感じていました。

先生からは随分お仕事をいただきましたが,常に『情報』という2文字を頭に叩き込まれました。情報化時代の到来を,誰よりも早く読み取っておられた先生ですから,情報収集力,情報提供のあり方などについては,大変口うるさく,新しい情報の芽を感じ取れない企画提案については,何度も修正を求められました。企画が成立するまでに,半年もかかった仕事もありました。それまでのプロセスを大切にする先生でもありました。私が生涯忘れぬ先生のお言葉は,「情報は真実を伝えなさい」。永遠の課題であります。一所懸命集めた情報には,本当に敏感な先生で,そのたびに「ご褒美」と言われ,仕事をくださいました。

昭和61年7月私は東京で先生の訃報に接しました。当時,自動車情報誌の創刊に携わっていた私は,直感的に,あの初秋の深夜のハイウェイの車中を想い出しました。限界を超える仕事量ではありましたが,常に先を行く発想で未知へ挑まれ,楽しんでおられたのかも知れませんね。しかし,残念ながら,やはり人生のスピード狂でおられたのでしょうか。ご冥福をお祈りしながら,私の好きな八木重吉の詩を想い出します。

 雨のおとがきこえる

 雨がふっていたのだ

 あのおとのように そっと

 世のために はたらいていよう

 雨があがるように

 しずかに死んでいこう