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Accumu Vol.1

対談「文化の交流」

三浦 雅士,浦川 宜也

三浦 雅士,浦川 宜也

浦川 最近の日本の国際的な,特に経済的に国際的な地位が高くなってきたので,文化交流ということが重要視されつつあると思うんですけれども,簡単に文化交流っていっても色んな形が考えられると思うんですね。文化に直接携わってる方々が考えていらっしゃる文化交流,経済界の方々が考えていらっしゃる文化交流,教育界の方々が考えていらっしゃる文化交流,色々とあると思うんですけど,今日は広い意味での文化全体を見渡していらっしゃる三浦さんと,いわゆる文化に直接携わる者から見た文化交流がどうあるべきなのか,その可能性と限界のようなことについて,ま,私も音楽家なので非常に限られた視点からしか見られないかも知れないけれど,その範囲内での文化全体の像から見たり,又,音楽というのも芸術文化の単なる一つの分野に過ぎないわけですから,それがたとえばヨーロッパでは,アメリカでは,日本を含めたアジアではどういう位置をしめるかとか,そんなことから…。

三浦 浦川さんはドイツに何年くらいいらしたんですか。

浦川 そうですね。1959年から81年だから,22年じゃないですか。正味21年くらいですね。

三浦 その間に,日本との違いの方を感じられました? それともあるところでは,たとえばこれは日本とも対応するなっていうようなことを感じられましたか?

浦川 そうですね。まあ,私がむこうに行った時は,高校を卒業して大学に入った年でしたから,そして私の場合には音楽高校にいたわけですから,実際には教養的には中卒なわけですよ。で,それまで音楽一辺倒でやって来て,そして,自分の専門である音楽を勉強にいって,感じたことは,まず,違いだけでした。

三浦 ああ,やっぱりね。

浦川 で,すこし補填させていただくと,日本にいて勉強している時には,西洋音楽をやるなんてことは,まったく当り前のことだったんですよね。で,ご存じのように,文部省の教育でも戦後はほとんど日本の伝統音楽のことには触れずに,いわゆる西洋音楽一辺倒の教育だったし,自分が受けて来たヴァイオリンを専門とした教育もそうだったから,自分にとって,まったく日常茶飯事であったわけです。ところが,むこうに行ったら,そのことがむこうの人たちにとって問題なんですよね。

三浦 日本人が西洋音楽をやるっていうのが,むこうには奇妙に見えるってことね。

浦川 そうですね。むこうの人たちはもっと素朴ですから,ヨーロッパ文化圏じゃない文化圏から来て,なぜヨーロッパ音楽をやるのかと,で,それがわかるのかと,本当にわかるのかと,非常に懐疑的な,こう…,

三浦 それをまず問われるわけですね。高校を卒業したばかりの若き浦川さんが,なぜきみに西洋の音楽をやる必然性があるんだとかって問われちゃう(笑)

浦川 まず,とまどってしまうし…,それに,いま考えてみると技術的に稚拙だったこともあるんだろうと思うんです。問題にされなかったっていうと恥かしいことなんですけど,たとえば,学校に入った段階では優秀な学生の一人だったと思うんです。でも,本当に一応むこうで優秀だと認めて下さったから,本格的に色んな問いかけがあったと…

三浦 しごいてくれたと…。

浦川 その段階だと何を弾いても問題にされなかったわけですね。何とか指は動くけれども,そんなの音楽じゃないと,それは全然違うんだと,非常に懇切丁寧に説明して下さる先生もあるかと思えば,あいつはここまでだ,というふうに見切をつけられちゃったという意識をこちらが持つくらいに冷たい先生もあったし,それから,自分で何かを気づくまでは何も教えないという態度を取られたかたもいらっしゃいました。で,結局,いま私がいった一番最後の自分でなにかをわかろうとするということ…,自分がわかってないってことをわかる…

三浦 それが一番重要でしょ。

浦川 結局,その先生が一番沢山のことを教えて下さったと思います。あとになって思うと…。

三浦 あとになってね。でも,やっぱり,ものをわかるってことは,自分が知らないことがわかるってことですよ,大抵は。つまり,何と何と何を読まなきゃいけないとかね,どこのところを勉強しなくちゃいけないとか,わかった瞬間ってのは,つまり,おれはなにも知らないってことをわかるってことでしょ。

浦川 そうですね。

三浦 いまのお話,面白いなと思ってうかがっていたんですけど,すごく逆説的なのよね。一番最初は違いしか感じなかったっておっしゃったでしょ。それで,その違いはっていうとね。たとえば,教育者はこういうことをしたっておっしゃる。それがね,たとえばぼくの関心でいうと,中世とか江戸にかけての日本に,有名な優れた教育者たちがいたでしょう,そういった人たちが弟子たちに対した態度とすごく同じなのよね,考えてみると。似てるじゃない…,つまり,教育者に三つの類型があるっておっしゃったでしょ? 本人がわかるまで放っとこうって人と,きみはいかにわかってないかってことを教えてくれる人,それから本当に冷たくしちゃう人ってね,色々いるんだっておっしゃったけど…。そのやり方って,たとえば浄瑠璃語りとか三味線弾きとか,そういった人たちの伝記なんか読んでみると,そういうの似てるよね。

浦川 ああ,そうですか。

三浦 それで,ぼくが思うのは,まず,日本と西洋とでは決定的に違うってことが一つね。だけども,決定的に同じとこもあるんじゃないかって気もするわけ。つまり,見方が違うからであって,ある面で切ると,とても同じだという面もある。それがどんな形であるかっていうふうなことを発見するっていうこと。そうすると,ああここで同じなんだって思った時に,ここでは決定的に違うんだってことが,もっとはっきりわかるんじゃないかって気もするわけですよ。

浦川 ええ,それはすごく大事なことだけど,でも,いま,こう,ひらき直って,どこが同じかってことを三浦さんに問いつめられると,ぼくは答に窮しますけど,でも…,敢えてそれにお答えするならば,日本では,すくなくともその当時は…,1950年代の終りでしょうか…,一般的にはまだ西洋音楽を音の現象として捉えていたんですよね。音を音の現象として捉えるということは,その頃…もしかしたら,もうシェーンベルグの頃からかも知れない,あるいはドビッシーの頃からかも知れないけど,だんだんに大きなうねりとしてあった…

三浦 つまり,現代音楽の潮流としてはね。

浦川 音をただ単なる現象としてしか捉えないということ… 三浦 ぼくもまったく同じようなことを経験した。それは,簡単にいってしまえば,日本の音楽教育のほうが進んでいるわけですよ,ある意味でいうと。音楽というのは音であると。音をどういうふうに操作するかってことだと。その考え方って非常に西洋的ですよね。西洋も最尖端の考え方だと思う。ところが,日本の方はそれが普通だと思ってやっているわけね。日本は西洋の一番進んでいるところをとり入れて,そのやり方でぼくらはやっているよと,それで,いま留学しましたと,で,きみたちの最尖端のことをぼくたちもやっているんだよっていったところが,むこうの方はその最尖端というのは,すごい基盤があって伝統があってやって来たことであるから,その基盤も伝統も無しにそこだけピューっと取ってやってるってことは信じられないと,きみたちはどういうアイディンティティーを持ってそれをやっているんだっていうふうに問うわけよね。そうじゃないですか?浦川 そうです。そうです。そして,まあ,こと音楽に関してだけ考えてみると,西洋の人たちは音楽というものを,なにか,こう,内容と密着したものだっていうふうに考えていたいわけですね。三浦 つまり,音楽は抽象性としてあるものだという考え方は,そういう長い伝統の積み重ねに対する反逆として出てきているわけですよね。そのことを知らないで,ただ結論だけをとってやってるってことが信じられないってことになるわけでしょ?浦川 そうですね,まあ私の場合作曲家じゃないから,それこそベートーヴェン,ブラームスの演奏をやっているわけだから,いわゆる作曲をしている人たちとは,ちょっと立場が違ったと思うんですけども。それは日本に帰って来てから,日本の伝統音楽をよく聴くようになって,はじめて日本の伝統の音楽の中にも音を現象としてしか捉えていない部分と,それから音になにか,音楽の中にもなにか意味を持たせている,その二つの面があるということを肌で感じたとでもいうのか…

三浦 ああ,それってすごい…

浦川 でも,そこに20年のなにか…,模索の様なものが…

三浦 それは,それくらいの時間が必要な認識じゃないかと,ぼくは思いますけどね。ただ,ちょっと異文化理解とか文化交流とかの話に戻すと,音楽に関してのその違いっていうか,そういうことって,たとえば,生活とか社会とかにもそのまま妥当しますね。たとえば民主主義なら民主主義ってものを日本人が一つの考え方として採り上げたと,それでいま政治をやってますと,で,外国に行って,自分たちはこういうやり方でやっています…と,これはきみたちが頑張って作り上げた体制でしょってね。ぼくらもこれでやってますよって形で持って行くと…。そうするとね,自分たちは封建社会から次の段階に移る時も大変な苦しみをしたし,その次の段階でもブルジョワの専横を防ぐためにこういうふうにしたしって,色々な闘争をして行く過程でそういうふうなものを見つけて来たと,それをきみたちは何だかスーッと持っていっちゃった…っていうような意識を持ちやすいと思うわけよ。むこうの連中は…。日本人っていうのは器用過ぎるんじゃないかと,なんだかちゃんと通過儀礼を踏まずにスイスイやってきたと…。

浦川 そうですね,その政治や経済のことに関しては…

三浦 日常生活だってそうですね。要するに,人と人との付き合い方とか,パーティのしかたとか,あるいは友だちとの付き合い方のありようだとか…。本当はすごく違うところがあったりするわけです。具体的にいうと,家庭とか家とかの空間の作り方が違ったりするわけ,つまりヨーロッパなり,アメリカなりっていうのは部屋の空間を演劇的な構造にしていくところがある。舞台みたいにしていくところがあると思うんです。夫と妻が演出家であって,登場人物として他の人たちが登場するというような形になっている。家庭というのはひとつの劇なんです。その上でパブリックとプライベートとか,そういう区わけも出来ていくというようなところがある。ところが,日本の方はもう家っていうと演劇的な空間とは誰も考えていなくて,むしろ楽屋裏的に考えている。それで,ハレの場としては外に出て行ってメシを食うとかはするけど,家の中でパーティをやる場合に家の中自体を演劇的な空間にするなんてことはしない…,そういう差っていうのはあるわけですよね。たとえば,日本ではオヤジが帰ってくるとステテコ姿になるとか,それがもっと極端になると,旅館に泊る場合でも,いったん旅館の中に入っちゃうと,ああここは楽屋裏なんだって感じで全員ユカタかなんかに着更えちゃって,スネもあらわに歩きまわる…,それはホテルではやってはいけないわけですよね。ホテルでは,部屋の中では何をしてもいいけど,いったん部屋を出た場合には,廊下はもうパブリックな空間だと…

浦川 社交場ですよね。

三浦 そうなるでしょ。つまり,なんかそのあたりで決定的に違いがあるわけだけど,そういったことに関しても違いを感じられたでしょう?

浦川 そうですね,やっぱり,こう,言葉の障害があったこともあって…,それがもちろん一番大きなことだと思うんですけど…,自分の意見を言わなければいけないと…,たとえば,友人の家に招かれて行っても,そこに友人の両親がいたり兄弟がいたりすると,やっぱり,こう,色々な意味で質問責めに合うというか,まあ,その頃はドイツでは外国人が…,特に日本人なんか少なかった時代だから…,それに,ドイツには外国人を迫害したという過去があるから,それを克服しなきゃいけないという潜在意識というか,もうおおやけの潜在意識のようなものが…

三浦 50年代っていったら,非ナチス化運動っていうのがもっとも激しい頃でしょう?

浦川 宜也
浦川 宜也

浦川 そうですね。

三浦 日本からも鴎外をはじめとして,第1次大戦前及び第1次大戦後のドイツにいっぱい留学しているわけですよね。で,その都度その都度の国際関係の中であるわけだから,違う印象を持って来るのよね。

浦川 そうですね。

三浦 つまり,ドイツと日本の関係がすごくいい段階で鴎外が行くと,鴎外は最大級に遇されるし,又,鴎外もそういうふうなところしか見ないってこともあるわけですよね。ところが第1次大戦後のむこうの方のものすごい物価高,インフレがあって…というところへ,日本の,まあ,ブルジョワの子供が行くわけですよ。羽仁五郎とか三木清とか。そうするとね,第1次大戦後から第2次大戦までの間のある時期っていうのは,日本がドイツに対して金持だったわけですよね。

浦川 もしかしたら今の状態に似ているかも…

三浦 そう,すごく似ているわけですよ。あの段階では日本とアメリカが金持だったわけですよ。第1次大戦と第2次大戦の間っていうのは。だからパリのアメリカ人っていうふうにいわれたりする。そういう国際状況の中で行っているんだってこともあるのよね。

浦川 そうですね。

三浦 お互い貧しい同士。だから浦川さん,貧しいところの子弟が貧しいところへ行ったわけですよ。で,片一方の方は伝統的な,つまり伝統に関してはすごいと思っているわけよね。

浦川 そうですね。

三浦 本当は日本も伝統に関してはすごいけども,一応浦川さんとしては,日本の国策としてあった西洋化ってものを全面的に引き受けたと…,最尖端でパイオニアをやりましたと…,私はお宅さまのやり方というのは全部会得したつもりです,あるいは,会得するつもりで来ましたと…,いうふうな形で行くわけですよ。

浦川 そうですね。

三浦 貧しいところから貧しい人が行って,そういうふうなことを言うというようなバックがある…,それはやっぱり大きい違いとしてあると思うわけよね。

浦川 そうですね。で,ドイツの場合,やっぱり,もう長い歴史の中で,とにかく陸続きだから異民族は敵だという意識があると思うんですよね。で,結局ヒットラーなんかがやったこともそれの延長だし,戦後は特にヒットラーがやったことに対する反省と国を挙げての自己批判が非常に強かった時期だから…。そして特に若い人たちは,やっぱりヒットラーによって外国を否定されてきたから,逆に外国はすべていい…と,丁度ある時期の日本に似ているわけですよね。

三浦 全面的そっくりですよ,それは…。

浦川 でも…,にもかかわらず,非常に,こう,すくなくとも音楽だけに関しては…

三浦 プライドがあるわけでしょ?

浦川 形の無いものの文化の形っていうか…,それにはすごいプライドを持っているわけですね。

三浦 それは音楽だけじゃないですよ。哲学に関したって,何に関したって,結果的にいえばドイツは世界を征服したわけですよ。ドイツ観念論の伝統っていうのは,まさに敗戦国の哲学であったんだけれども,戦いに勝ったところのフランスであるとか,イギリスであるとか,アメリカであるとかいったところの哲学を全部征服していくわけですよね。

浦川 ええ,ええ,ええ…

三浦 第2次大戦が終ってサルトルとかメルローポンティとかが出てくるでしょう…,あれは全部ハイデッガーの延長上でしょう。つまり,実存主義,構造主義,ポスト構造主義ってふうなのはフランス哲学が先頭を切っているわけだけど,それは全部考えてみるとドイツ哲学の再解釈なんですよね。

浦川 延長というか…

三浦 ええ。たとえば,デリダっていう人がサルトルを批判するとかっていった場合には,要するに,おまえドイツ語ちゃんと読めてないじゃないかといったたぐいの批判ですよね。きみたち実存主義っていうのを誤解しているんだ…,ハイデッガーのことよくわかっていないんだよって…おれの方がよくわかるよと。だから日本でもいるでしょ,そういうふうな人。おまえさんの英語理解力はおかしいと,おれの方がもっと出来ると。それと同じなんですよね。それがアメリカで爆発的に流行ったわけですよ。だからドイツで生まれたのがフランスに行って,フランスからアメリカ,それからそのアメリカからまた日本と,日本もその延長上でやっているわけですからね。

浦川 それと,やっぱりドイツを追われた知識人たちのヨーロッパ圏内の外国に於ける活躍とアメリカでの活躍…

三浦 もう決定的にアメリカでの活躍でしょうね,それは。要するにアメリカですよ。結局いまの言い方でいえば金を持っているのは誰かっていうことです。その段階で言えばアメリカが金を持っているわけです。一番最初に浦川さんがおっしゃっていられたように,いま,なぜ文化交流の問題が重大であるかっていうふうなことの理由は,唯一日本が金持になったからです。

浦川 ええ,そうでしょうね。

三浦 アメリカもそれだったわけですよ。第1次大戦後のアメリカっていうのは最大限バカにされていたわけですよ…突然金持になったと。19世紀に於けるアメリカっていうのは,要するに本国で食い詰めた奴が逃げて行くところだったわけでしょ。アメリカっていうのはしたがって両義的です。一方で言えば,食い詰めた奴しか行かないところ,だけども,非常に可能性があって価値が逆転するかも知れないところっていうことですよね。それが,ドフトエフスキーとかカフカにとってのアメリカですよ。ずーっとそのイメージがある。ところが第1次大戦後に漁夫の利を占めたのがアメリカであって,一番儲けたわけでしょ。儲けた金を第1次大戦後にバンバン使おうっていうんでパリに行くわけです。たとえば,ヘミングウェイとかヘンリー・ミラーとか,ああいう連中はそういうので儲けた金をフランスで使おうと思って行くわけだ。使いながら文学をやるわけでしょ。

浦川 そうですね。

三浦 だから,あの段階でアメリカは異文化理解ってことを考えたと思うのね。丁度その前の段階,つまり19世紀のイギリスと同じね。イギリスが世界帝国を実現していく過程で文化人類学が発生するわけだけども,今度その文化人類学の中心がアメリカに移って行くわけですよね。何故かっていうと国際交流が必要になってきたわけ…,金があるから。国際交流っていうのは金が無くっちゃ駄目なんですよ。国際交流って簡単に言うとお付き合いの仕方教えましょうでしょ? 冠婚葬祭お付き合いの仕方教えますっていうのは食えるようにならなきゃ駄目なんですよね。

浦川 食えなきゃ相手にしてもらえない…

三浦 雅士
三浦 雅士

三浦 衣食足りて礼節を知るってなもんで,その前まではアメリカは衣食足りてなかったわけですよ。ところが第1次大戦後は衣食足りちゃった。それで礼儀を知らなきゃいけないと…,それで国際交流ってことになる。日本もインターナショナルなレベルで言えば,前までは衣食は足りてなかったと…,焦っていたと…,特殊な連中だけがフランスへ行ってフランスは素晴しいとか,ドイツへ行ってドイツのものは素晴しいとかいってた。それは地主連中ですよね。農村の連中が非常に悲惨な目にあっているのに,金をふんだくって,その金でドイツに留学してた連中がいたという構図です。ところが第2次大戦後はそうじゃなくなった…,そこで丁度その悲惨な時に浦川さんはむこうにいらしてたわけだけど,そこのところでかなり苦労なさると…,ところが70年代が過ぎて80年代になっちゃったら,もうほとんど日本が一番金持になっちゃったと…,そこで国際交流ってことを言いはじめたわけよね。

浦川 そうですね。

三浦 まったく同じであるわけですよね。そういう背景において浦川さんの体験も見なきゃいけないということだと思うんですけど…,一方ではね。

浦川 そうかも知れませんね。

三浦 そこで,そういう背景を考えたうえで,もう少し浦川さんの体験をお伺いしたい。さっきの違い方のところでは,自分の意見を言えっていわれたってことでしょ?

浦川 ええ…,で,同じだと思ったのは…,そうですね,最初私はドイツにしかいませんでしたから…,貧乏学生でお金もなかったから,旅行もなかなか出来なかったし。でもほかからも色んな留学生が来てますから,その人たちと付き合ったり…

三浦 ほかからってのは? 日本だけじゃなくて?

浦川 とにかくヒットラーの悪行をなんとかして挽回しなくちゃいけないっていうんで,非常に外国人の留学生に対して寛大だったし,だからアメリカからもフランスからもイギリスからも留学生ってのはいたわけですね。イスラエルからも,もちろんアフリカもだし,中近東,香港とか台湾とか韓国とか。で,やっぱりヨーロッパのほかの国の人たちと会ってみて,ドイツにある…これは何というか…主知主義っていうんですかね,それは,日本人の持っている文化は知であるという…,それと非常によく似ているなと思いましたけど。それがわかったのはやっぱり4,5年いてからかしら…,それが実感としてわかったのは…

三浦 それは,どっちかというと日本にもあるようなものとして感じられたわけですか?ドイツの主知主義っていうのは…

浦川 ええ,ええ,精神主義とでもいうのかな…

三浦 それは面白いですね。だけどもよく考えてみると浦川さんが持ってた教養っていうのは,ある意味でいうともともとドイツ的なものだったかもしれない。近代のある時期,日本は非常にドイツと親しくなってドイツ的なものをバーッと入れたわけですよね。日本の帝国大学を柱とする教育制度ってものが,だいたいドイツ型に移行するわけですよね。医学部であれ,なに学部であれ。その前までは結構フランス的だったりね。たとえば徳川幕府っていうのは,フランスと非常に親しくなっていたわけだし,明治のはじめのあたりはイギリス的なものがとても多かったわけです。自由民権運動なんかはフランス的なものが強かったし…。しかし日本の政府としては,ドイツ的なものを入れたわけですよね。そのドイツ的なものが,咲き乱れたのが大正時代だったわけですね。大正デモクラシーっていうのは,根幹にはドイツ的なものがあると思うんです。

浦川 ええ,ええ,ええ…

三浦 だから教育の仕方とか,それが残っているんじゃないかな,日本の教育界の中には。つまり,ドイツに行ってね,ドイツの主知主義がわかってきたと…,主知主義ってふうなのが,ある意味でいうと日本的なものと重なり合うなって思ったのは,ひょっとすると,前に自分たちのお祖父さんとかお父さんとかが真似しちゃっていたものね,それ…

浦川 それを,なんか自分が受け継いでいるからかも知れません。

三浦 そうかも知れませんね。すごく微妙なんですよね。

浦川 それも本物じゃないかも知れない。

三浦 ある意味ではね。でも,また別の考え方もあり得るわけ…,つまり,日本にも,たとえば,儒教的な伝統とか仏教的な伝統とか色んなものがあるわけです。日本っていうのは結構精神主義であったり,脱俗を良しとする考え方があったりとか,色々あるでしょ。あるいは武士道精神。これは結構ヨーロッパにおける騎士道と対応するかも知れないし,そういう一番封建主義的なものが残っていたのがドイツかも知れないのね。

浦川 そうですね。

三浦 日本に残っている封建主義的な要素とドイツに残っている封建主義的な要素って結構重なるところがあるかも知れない。

浦川 そうですね。たとえば,イギリスとかフランスに残っている封建主義とはちょっと別ですもの。

三浦 それに…,イギリスの場合には産業革命を最初にやっちゃったでしょ。で,その後の法律の作り方とかなんかにしても,初めてのことをやっていっているわけですよね。その過程っていうのは大変な死に物狂いの闘いみたいな過程で出来ていくわけですよね,イギリスの場合ね。

浦川 そうですね。ヨーロッパの場合,イギリスが一番大変だったと思うけど,結局彼らの財産っていうのは,全部自分たちで勝ち取ったものなんですよね。

三浦 だから,明治憲法を作るにあたってね,日本がプロシャの真似をするというのは,つまりほかの国よりもドイツが一番日本に近いと思ったからかも知れない。

浦川 そうですね。日本の憲法っていうのはやっぱりあれはイギリスの王政と,ドイツの軍国主義的なものと,ヴァティカンの神格化されたローマ法王のそれとを三つ合わせて,結局明治天皇をああいうふうに祭上げてしまったわけだから…

三浦 でも,ウエイトでいえば,ドイツが一番大きかったと思いますよ,実質的なやり方でいえば。ドイツとイタリーと日本っていうのは,簡単にいえば,資本主義が遅れてる国ですよね。

浦川 そうですね。ドイツなんか完全にそうですね。

三浦 イギリスとフランスは資本主義が進んでいた国です。ブリテッシュエンパイアっていうのは全世界的な感じになっちゃってるわけですよ。19世紀の後半においては。だから,それを追い上げる立場にいるわけですよね,ドイツもイタリーも日本も。追い上げる立場としての共通性は絶対あるわけですよね。追い上げるってことでいえば,独裁的な政権を作った方がいいわけですよね,一挙に。

浦川 手っ取り早いというわけ…

三浦 そういうふうなのがあるから似てたと思う…。だから,浦川さんが最初に違いしか感じなかったっておっしゃったでしょ。だけど,その違いのなかに結構似てるとこもあるんじゃないかなあという話をぼくがしたでしょ。そうしたら,そこに主知主義っていう話が出てきたじゃない。で,そこの場合に二つの問題があると…,それはもともと似てるのかもわからないし,それからもう一つは,実は浦川さんのお祖父さんやお父さん,つまり,ぼくらの先祖であるところの明治・大正っていうのが結構ドイツと親近感を持ちながら接していたからかもわからないというふうなことも考えられる…

浦川 そういうふうなのが,日本の教育界の中に根強く入りこんで来て…

三浦 ということもあるかもわからないってことなんですよね。だから,ものすごく難しいわけです。似てるとか似てないとか,違うとか違わないといった場合にね。ぼくらが見ている,あっドイツけっこう日本に似ているっていうのもね。鏡を見ているようなもので…,そういうことがいっぱいあるんです。

浦川 たとえば,その,日本人の生活感情ってことから考えると,イギリスの方がずっと似てると思うんですよね。

三浦 そうですか。

浦川 で,ドイツ人っていうのは,どういう人たちかって,もしその当時私が聞かれたら,ドイツ人っていうのは厚かましい奴らだとしか言わなかったと思うんですよね。絶対に親切な人たちだなんて私は思わなかったです。いかに無神経に人の気持を無視して,他人のことをズケズケ聞く,そういうような印象が強かったです。

三浦 そうなんですか。

浦川 で,やっぱりその当時,いわゆるドイツの精神界で非常に問題になるというか,ドイツの精神界が知ろうと努力してたのは,東洋的な思想だと思うんです。だから鈴木大拙の著書なんかは,もう売れに売れたんじゃないかしら…

三浦 ああ,そうなんですか。

浦川 で,やっぱり,その東洋的な精神主義というかな,神秘主義とでもいうのかしら…,自分たちの,その合理的なものの考え方ではわからない部分をわかろうと,合理的にそれをわかろうと彼らは努力したんじゃないかしら。

三浦 それは,すごく強い印象としてありました? その当時。

浦川 宜也

浦川 ええ。

三浦 つまり60年代ですね?

浦川 60年代ドイツにそれがあった…

三浦 それはね,かなり世界的な状況だったと思いますね。

浦川 ああ,そうですか。

三浦 多分ね,それは,ドイツロマン派からそうですよ,もともとの。つまり,ゲーテとかシラーとかあの段階くらいからもう始まってて,それで,それをオリエンタリズムっていうふうに…,すくなくとも,オリエンタリズムの一環であるというふうに言うことも出来るでしょう。ヨーロッパっていうのは,もともとそういうところがある。つまり,ヨーロッパっていうのはぼくたちが考えているみたいなオリジナルな国じゃないわけよね。ヨーロッパ自身がアイディンティティーを気にするところがあるわけですよ。つまり,自分たちはどこから来たのかってことを常に気にする…,したがってギリシャ・ローマっていうのを必要以上に崇めたてまつるわけですよ。

浦川 そうですよね。たとえば,オリエンテーションなんて言葉があるくらいだから…

三浦 そう,そう,それですよ。

浦川 オリエントが何処にあるかによって,自分たちの位置が定まるってわけですものね。

三浦 そう…,だから座標軸を見ているようなものですよね。アメリカもまったくそれを受け継いでいると,ぼくは思う。だから鈴木大拙が最初に流行ったのはアメリカでしょ,むしろ…。

浦川 ああ,そうですか,やっぱり…。

三浦 で,丁度60年代のそれっていうのは,やがてはヒッピーとか,そういうものを生み出していく潮流の中にあったとぼくは思うわけ…

浦川 ああ,そうか…

三浦 浦川さんの話を聞いていて,すごく面白いなと思うのは,最初,ほら,国際交流って何だろうっていう時,空間的に思うじゃない…西と東とか。ところが,浦川さんの体験一つを今お話いただいていて,すぐにわかっちゃうことは歴史をぬきにしては語れないってことですよね。

浦川 考えられないですよね。

三浦 その時そこの家はどういう状況だったのか,たまたまお父さんが死んじゃった時だったとかって,そういうふうな話がとても重要ってことなのよね。抽象的には語れないっていうか…

浦川 そうですね,家が破産した時だったとか…

三浦 そう,そう…そういうふうなのが,かなり決定的に体験を方向づけているってところがあるわけじゃない。それがね,国際交流っていった時に,しばしば脱落している視点だと思う。つまり,ドイツは,とか,イギリスは,とか,フランスは,とかって気楽に言うけれど,違うんだと。つまり歴史的に変化しているんだと…,いつでも変容しながら動いているんだと…,のみならず,日本だってそうなんだと。だから,お互い動いている船と船との関係であってね,決してビシッと決っちゃったところと通信しているんじゃないんだってことが,すごく重要だと思う。

浦川 そうですね。ということは,これからの,ま,日本がここまでお金持になったから国際交流をやらなければいけない…,それは,もうデューティーですよね,こうなってくると。で,これからわれわれがやらなくてはいけないっていうのは,やっぱり,それぞれの国の立場というか,その状態というか…,歴史的な状態を見極めた上で対応していかなくてはいけない…

三浦 そうですよね。つまり,動いているってことを考えながらね。スタティックなんじゃないんだと…,だけどもね,何ていうかな…,日本が金持になったからっていうのではないんだろうって気がしてるのね,ぼく。つまり,二つの要因があるんだと思う。衣食足ったから礼節を知るんで,これから国際交流をやらなきゃいけないっていうのもあるんだけども…,ぼくはね,それだけじゃなくなっちゃってると思うのね,ほんとうは。たとえば,いまの日本の政治状況を見ていると,社会党政権とか野党連合かなんかが出来るかも知れないのよね,可能性として。で,そうなったら貧乏になっちゃうでしょ,とりあえずは。貧乏になっちゃうっていうと変だけど,すくなくとも為替相場が変動して,かなりな経済問題が起ってくるでしょう。でもね,そういうふうになった方がいいと,ぼくは思ってるんですよ。簡単に言っちゃうと,本当は日本は貧乏なんだから…。富んでるとか金持になったとか言ってるけど,ぜんぜん金持でも何でもないわけよ。いま嘘ついてて,金持だっていっているだけであってね。それは,見せかけなんであって,本当は違うんだから。ここで社会党政権かなんかになっちゃって,すこし,日本ってなんか自分たちがトップを走っているってことに疑問を持っちゃったらしいと,どうもあそこは危険だというふうに思わして,すこし貧しくなった方がいいと思う。つまり,内側にお金を使わなくちゃならないような時期に来てるわけよね。1回止まらなくちゃいけないと…,だけども,そういうふうにしたとしても,国際交流とか,文化交流っていうのは,進んじゃうと思うの。逆に言うと,もっと進むと思うのね。つまり…

浦川 進まざるを得なくなる…

三浦 というか,つまり,世界って…地球っていうのは,ぼくたちの視野でいえば…,昔でいえば世界地図は平面だったわけよ,でも,今はもう完全に球体になっちゃってるわけ。飛行機に乗るたびにね,ああ,地球は丸いって思っているわけですよ。こんな形なのかって,たったこれだけなのかっていうふうな感じを持つわけよね。着陸する時なんかにね…

浦川 本当にそうですよね。本当に掌にのる様なたったこれだけですよね。

三浦 そう。するとね,そっちのことの方が本当はぼくは大きいんじゃないかと思う。金があるから交流なんだと,衣食足って礼節を知るからそうなんだってだけじゃなくて,どうも,意識として言うと,たったこれだけだったのか,そのわりには近所付き合いもなにもみんな下手だった,もうちょっとちゃんとしなくちゃいけないんじゃないかと,そういうような感じの方が強いんじゃないかと,ぼくは思っている。だから,日本が貧しくなったとしても,文化的な交流はずっと続くと思うし,それはいつでも,さっきおっしゃった義務だと…,デューティーであるし,本当に当然やらなきゃいけないと…。その間にアジアというのが,そっちの方がもっと重要になってくるかも知れないし…,そういうふうなことがあるだろうと思うな。

浦川 そうですね。私は…,今,お話をうかがっていて,私なんか,ひそかにそう思っているわけです。それは私がずっと日本にいなかったから,よけいにそう思うわけですね。私は1981年に帰ってきて…,もちろん,それまでも1年に一度ぐらいはずっと帰っていましたし,1981年からは日本に居を構えているわけですけど,で,なるべく自分は冷静な目で見ようとしてるわけですね。でも,私はなんか日本の変化のテンポについて行けないっていうか…,非常に仲間洩れみたいな感じがするんですけど,そうじゃなくて,日本が変化しているんじゃなくて,日本を変化させている人々が沢山いると思うんですよね。

三浦 うん,うん…

浦川 その,いわゆる…,こういうところで,こんな批判をしてはいけないのかも知れないけれど…

三浦 いや,そんなこと無いんじゃないですか…

浦川 政治にしろ,経済にしろ,その…文化にしろ,いわゆる評論をなさるかた…

三浦 なんか自分のこと叱られているみたい(笑)って感じが…

浦川 ま,三浦さんも評論家の一人だから(笑)そんなふうに申し上げるなんて…,でも,やはり三浦さんのお口から…

三浦 はい!(笑)

浦川 今のようなお話がうかがえるなんて,私は夢にも思っていなかった…

三浦 えーっ! どうしてですか?

浦川 いや,やっぱり,私はそれが本当だと思うんですよね。日本はそんなに金持とか,そんなに豊かじゃない。それは経済的にも豊かじゃないし,精神的にも絶対に豊かじゃないと思うんですよね。でもみんな豊かだ豊かだって言うじゃありませんか。もう,それこそ,ま,民間放送はもちろんのこと,お堅いNHKでさえ,率先して,なんか,もう,それこそ誰か仕掛人が外国にでもいるんじゃないかと思われるくらいに…,なんかそういう風潮でしょう。で,本当に何年ぶりにというか,はじめて,その,文化に関わってらして…さっき経済も文化だっておっしゃったけども,広い意味での文化に関わってらっしゃるかたから,そういう,地についたというか,われわれのような素人にもわかる形で説明して下さったっていうのは…有難いことです。

三浦 いや,そんなことないですよ。

浦川 いや,なんか,色々な本が出てますでしょ。非常に批判的なことが書いてあるから,興味本位で読んでみても,なんだこれしきのことしか書いてないじゃないかっていうのが実感なんですけども…,だから,三浦さんのおっしゃったこと,私は本当にそのとおりだと思います。でも,そのことをやっぱりわれわれのジェネレーションの人間が自覚していかなければいけないと思うんですよね。で,今,経済界のいわゆる長老といわれる方々は,本当に苦労なさって日本経済をここ迄引っぱってこられた。その方たちの努力と自負っていうのはすごいと思うんですね。でも,なにかそういう方たちって,本当に厳しい目でみていらっしゃる方でも,今の三浦さんがおっしゃったようなことを,本当はおっしゃりたいんだけども,おっしゃることを憚っていらっしゃるんじゃないかという気配が私には感じられるわけですよね。

三浦 ああそうですか。でもね,ぼくが申し上げたのはね,実感っていうか…,普通の人はみんなそう思っていると思いますよ。もしもそうじゃないとすれば,それはおかしいのでね。それでね,これからが大変だなっていうか,それは,つまり,さっきの話にもどるんですけど,今度はね,違いじゃなくて,どれだけ同じかってことが問題になって来るだろうと思うんですよ。どれだけ同じだっていう過程でね,日本なら日本の文化ということを,つまり,西洋の文脈とか東洋の文脈とかってことを抜きにして,外部との関係のもとに日本の文化をちゃんと考えなきゃいけないというふうな時になって来ているんじゃないかと,ぼくは思う。まだ,それをやってないんじゃないかと思うのね。

浦川 まだ全然なされてないですよね。

三浦 少し具体的なことを言うと,たとえば和辻哲郎が「歌舞伎と操り浄瑠璃」って本を書いている。これは,操り浄瑠璃に於けるテーマが歌舞伎になってどういうふうに展開していったかっていうのを書いているんだけどもね。これを読んでてね,一番思うのはオペラですね。オペラの主題というふうなのを,こんなやり方でやったら面白いだろうなってことなんですよ。オペラの主題ってのも,もともとは,たとえば,ギリシャ,ローマの古典だとか,あるいは,中世の物語とか,そういうふうなものを題材にしてやるじゃない?

三浦 雅士,浦川 宜也

浦川 ええ。

三浦 もうすこし下ってくると,コメディア・デ・ラルテとか,そういうふうなものを媒介にしてやっていくわけじゃない。それが,操り浄瑠璃から歌舞伎に至る過程とすごく対応しているところがあるわけね。

浦川 ああ,そうですか…

三浦 つまり,なんていうかな,中世にいろいろな物語系がいっぱい出てくるわけですよ。「ドンファン物語」とか,あるいは「フィガロの結婚」とか,色々あるじゃない…。「フィガロの結婚」はおかしいかも知れないけど…,

浦川 ええ,でも,あの「セビリアの理髪師」,あれも色んな題材をあれして…,誰でしたっけ…

三浦 ボーマルシェ?

浦川 ええ,ボーマルシェが結局戯曲にするわけですけど,彼は何も無いところから発明したんじゃなくて…

三浦 そう,そのことをぼくは言いたかったわけ,そして,そのもともとの物語って,だいたいね,中世なのよね。つまり暗黒と言われてる…。まあ暗黒とはもういわれなくなっちゃったけども。ルネッサンスを研究していくと,どんどん中世がルネッサンスになっていっちゃうわけよね。(笑)12世紀にすでにルネッサンスがあったとか…

浦川 歴史がなにか止ったようなふうに,ぼくたち教えられましたよね。

三浦 昔ね。

浦川 中世には歴史が無かった…って感じでね。

三浦 今の歴史学ではかなり違うみたいですよ。で,それは,かなり重大なことなのよね。というのは,日本でも中世って何で重大かっていうとね,地方が出来る時代なんですよ。いなか,つまりね,前までは京都なら京都,畿内なら畿内が国だった。つまり,そこだけが人間が住むところだった。ところが,中世の過程で違っていくわけ…,全部が人間の住むところらしいってことになって行くわけです。全部が住むところらしいってことはね,その地方,地方の名産が出来ていくってことなのね。たとえば,あそこは何々が出来るとこであると…,簡単に言えば,まあそうだな,名産があるってことは文化があるってことなのね。

浦川 ええ。

三浦 あそこは塩が出来るとか,あそこは何とかが出来るとか,それが成立していくのが中世なんですよね。で,その過程で地方の物語が出来てくるわけ。地方地方の,たとえば,どこどこの長者の娘が乞食と結婚したら,その乞食が若様だったとかって話が出来ていく。そういうような過程が,ぼくはヨーロッパにもあったと思う。

浦川 そうですね。

三浦 それでね,たとえば,オペラの前身,前の段階のある種の演劇とかさ,色々なものに浸透していって,それが,こう,出来てくるっていうのがあるじゃない。和辻哲郎の「歌舞伎と操り浄瑠璃」を読んでいるとね,ああ,なんだ,これまったくヨーロッパに適応出来るかも知れないって感じがしてくるんです。ヨーロッパでも同じようなことがあったんじゃないかと…。経済的な状況も同じなのよね。つまり地方分権でさ,ひとつひとつに城下町があったり何とかがあったり,商人が行き来したりとか何とかっていうのがあるじゃない。それで簡単にいっちゃえば総体的に豊かになってくる。つまり,GNPが上ってくる段階だった,中世っていうのは…,全体的にね。で,ヨーロッパの場合もそうなのね。ハンザ同盟とか何とかが出来てくる,そこに至る過程っていうのは,全体的に経済水準が上っていく過程なわけです。

浦川 そうですね。

三浦 その過程で,物語群が発生してくる。物語群が発生してくるっていうことは,それに伴って演奏家とか音楽家とかが発生してくる過程でもある,簡単にいっちゃえば。で,その延長上で,オペラとか何とかが出来るでしょう。で,こっちの方はその延長上で歌舞伎が出来る…

浦川 ええ,そうですね。

三浦 そうするとね,歌舞伎とオペラというのは,たとえば,ドナルド・キーンさんとかにいわせると,非常に近いんだと…。で,ぼく,キーンさんにね,ニューヨークにいる時に,「ところで三浦さん,お話聞いているとすごくオペラがお好きらしいけれども…」つまり,ぼくらオペラなんか,よく観に行ってたからさ,「歌舞伎は観ますか?」とか聞かれて,「はあ,あまり…」とか言うと軽蔑されちゃってさ…(笑)。キーンさんたちにとっては,似てるわけよね。バレエとオペラの関係は,日本舞踊と歌舞伎の関係なわけですよね。これはね。みんなどう思っているのかわからないけれど日本では,オペラとバレエをまったく切り離して輸入しているでしょ?

浦川 そうですね。

三浦 あれは,すごく変な形で…

浦川 そうなんですよ。

三浦 オペラハウスっていうのはもともと…

浦川 オペラの中にバレエがあるわけですよ,もともと…

三浦 むしろ,バレエの要素が強かったりしてね,一時期は…,

浦川 結局,芝居のために作曲家は曲を書いたんじゃなくて,バレエのために書いているわけです。

三浦 そうなんですよ。

浦川 バレエのために書いた方がずっと,その,なんていうかしら,非常に,その,顰蹙を買うかも知れないけど…,音楽的な音楽が書けるわけです。

三浦 そうですよ。だって,純粋視覚と純粋聴覚を結び合せるわけであって,言葉を介在させないんだから…。それは音楽家にとっても,やり易いわけですよ。で,しかも,ダンスのための曲を組み合せるシステムが出来てくると,それのエッセンスみたいなものが,たとえば交響曲になっていくわけじゃない。

浦川 ええ,そうです。

三浦 だから,もともとはダンス音楽から始まっているわけですよね,交響曲って概念自体が…,あるいは,ソナタ形式ならソナタ形式とか,色んな形式があるけど,その形式のもともとっていうのは,人間の身体が踊ったり動いたりする時の,その自然の速度っていうか,身体的速度っていうふうなものに依拠しているわけじゃない?

浦川 そうですよ。

三浦 で,それがあって,ベートーヴェンの交響曲っていうか,最終的にはそこまで行って,それが,最後はマーラーの頽廃にまで至るというふうになるわけだ。するとね,今,申し上げた流れっていうのは,ひょっとすると,日本の浄瑠璃とか歌舞伎とかってふうなものを理解するには,同時に,ヨーロッパに於けるオペラの成立と展開ってふうなことと比較しながら考えた方が,はるかに有利なんじゃないかと…

浦川 そう! そうですよ。

三浦 でしょ?

浦川 非常にあたり前なことなんですよね。たとえば,この頃フランスのそういう昔の舞踊とか,中世の劇なんかをやるグループが来たりしてる…

三浦 ええ,観ました。

浦川 それはそれで,すごく面白いんだけれども,なんか,それをわれわれって,ただ,それこそ,現象としてしか,捉えていなくて,本質的な,われわれの文化の中にも,それがあるってことを気がつかずに,取り入れているんじゃないかって気がするんですよね。

三浦 すごくするんです。

浦川 もっと,それをね,比較してね,対照させれば,もっともっと面白いことであるし,フランスのそういう劇もよくわかるし,そして自分たちの持っている文化の価値ってものも,もっとわかる…と思うんですよね。

三浦 そのとおりなんですよ。だからね,何故そうなったかっていうとね,明治維新だったと思う…

浦川 諸悪の根源は…(笑)

三浦 ある意味ではね。だから,諸悪の根源であるから逆に重要であるってことになるんだけど,つまり,たとえば,歌舞伎と操り浄瑠璃とかって問題設定の仕方は,明治維新の前の日本を問題にしているわけでしょ?

浦川 ええ,そうですね。

三浦 つまり,近代化される前の日本。ところが,近代化される前の日本とヨーロッパを対比してみると,とても似てるじゃない。そういうことがいっぱい出て来るわけです。ぼくらは明治以降ね,西洋ってのは,まったく,日本とは別ものであると…,日本は封建的で,むこうは進歩的であると思ってやって来た。けれども,よくよく考えてみたら,自分たちが恥かしいと思って否定してきたものの方が,はるかにヨーロッパに似てたってことね。それがぼく,あるんじゃないかと思うわけ,それが一つ,で,もう一つは,だけどもそんなふうに対比してゆく過程で決定的な違いもわかるだろうと思うわけ。

浦川 それは,もう必然的に出てきますよね。

三浦 うん,つまりもしも交流するとかっていった場合にはさ,今とてもふしあわせなことには日本が隠していたことね,つまり,国際化していく過程で隠して…,それで鹿鳴館みたいなことをやって隠しおおせたかなぁーっとかさ…

浦川 (爆笑!)

三浦 あるいは,日清,日露を勝って,それで,第1次大戦にも加担して,隠しおおせたかなぁーっていうふうに思ってまた,それが焦点になるんですね。面白いことには,ヨーロッパにしてもアメリカにしても,日本が隠してきたもの,一生懸命隠そうと思ってきたものを珍奇なものであると思って,面白がって,それを日本の代表にするわけですよ。すごい逆説があるわけ…,日本は隠そうと思った。ぼくのお父さんとお母さんは,なんかこうヘンテコリンな人ですと,それを隠したいと,あの2人は座敷牢かなんかに押込めて,自分は燕尾服でも何でも着て出かけましょうと。ところが,その付き合ってくれる友だちは,きみの個性はあの座敷牢に閉じ込められているお父さんとかお母さんの中にあるんだよというふうに見ていて,それで,たとえば,マダム・バタフライとか,あるいはミカドとかといった座敷牢の中にこそ,日本があるって感じで理解しようとするわけですよ。

浦川 うん,うん,うん。

三浦 日本が隠そうと思ってたことを,連中が取り出そうとするから,ぼくらはすごく恥かしくなるわけ…。同じことを,今,暗黒舞踏がやっているんですよね。暗黒舞踏っていうのは,ヨーロッパの視線に対して日本が隠そうと思ったものを,わざと出してやろうという…

浦川 暴露してやろうと…

三浦 うん,そういうやり方ですよ。それでヨーロッパやアメリカがそれを面白がっているのは,なぜかっていうと,日本が隠したがっているもの,つまり無意識のもの,つまり忌避すべきもの,なんかもう汚いものだから…。汚いにきまっているんだから,オリジナルは。だから,それに関しては汚い日本がいいっていうふうになっているわけですよ,図式として言えば。だから,逆説がいっぱいある話なんだけどもね。たとえば,浦川さんなら浦川さんが,自分をインターナショナルに売ろうと思うでしょ。その場合,日本を主題として売ろうと思ったら,汚いもんでやればいいんですよ。ヨーロッパやアメリカが,もう恥かしくて出来ないことをやれば,ああやっぱり日本だから出来るんだなってふうになるわけなんですよ。そうじゃなくて,むこうの論理に乗っ取って,完全にむこうの論理だけでやる場合は風圧が厳しくなるわけですよ。

浦川 ええ,ええ,ええ,そうですね。

三浦 なんでおまえが抽象絵画をおれ以上に上手く画くんだ,そんなところまで日本が取るなんてケシカランと。日本はなにか奇型児代表としていてくれればいいんであってっていうのが,絶対アメリカにもあるし,ヨーロッパにもあるわけですよ。連中は無意識にであれ世界の中心は自分たちだと思っているわけだから。

浦川 うん,うん,うん

三浦 それで,それにおもねるって形がすごく多い。文化交流やる場合にね。日本から歌舞伎とかなんとかを持っていきましょうっていった場合,非常に,なんか偏頗さを強調する。いざりみたいに歩くのが日本人だというふうなので売る。それが日本のやり方だったわけ。でも,これはすごい間違っていると思う。まず最初に隠すべきじゃなかったものを隠しちゃったってことね。それはね,江戸に至るまでの日本の伝統っていうのは,実はヨーロッパと同じような重さだとぼくは思うわけ。ヨーロッパのオペラが成立してくる過程とか,そういうようなものが,歌舞伎が成立してくる過程とまったく似ているようなもんであってね,それを比較していくと,別に隠す必要もなければね,なにもする必要なかった。むしろ,正々堂々と出してよかったと思うんですね。

浦川 話をちょっと,またもとに戻しますけど…違う部分っていうのをヒシヒシと感じたっていうのは,それは,やっぱり,こう,宗教の問題だったと思うんですよね。たとえば,ヨーロッパはなにかということを考えた場合に,やっぱり日本の状況とまったく違っているのは,ぼくは,その,日本の…,本当に恥かしい話なんですが日本の伝統的宗教音楽と日本の世俗的な伝統音楽がどういうふうに関わっているか,よく知らないんですけど…,たとえば,声明とかはお寺の中でしか,僧侶によってしか行なわれないものですよね。で,ヨーロッパの文化は何によって支えられているかっていうと,色んな要素があると思うんだけど,それは,やっぱりキリスト教に負うところがとっても大きいと思うんですよ。

三浦 ええ。

浦川 結局,その,目に見えないことを見せることによって…目にみえる力であらわすことによって,西洋の美術ってものは発展してくるわけだから,そして,たとえばバッハの時代になってもなんでも,その前から教会の聖歌隊って,みんな僧侶たちがやってたんじゃなくて,やっぱり,その,女の人は入れなかったけれども…,ボーイソプラノの人たちとか,ボーイソプラノの人たちは,聖職者じゃないわけだから…。それが,後になって,たとえば,バッハの時代になれば,いわゆる信者たちのコーラスが芸術作品を支えているとでもいうんでしょうか,すこし大袈裟な言い方をすれば。で,日本には,そういうことはなかったですよね,きっと。そうじゃない?

三浦 そのことに関しては,別の意見もあるけど,でも,結論があるでしょ?

浦川 結局,その,いわゆる西洋の主知主義っていうのは,その宗教的な背景で成り立っている部分が多いんじゃないかというふうに…,だから,知・情・意というふうな分け方をするならば,オペラの場合は情と意とで,宗教音楽の場合は知だけだというような大雑把な分け方が出来るんじゃないかと思うんだけど…,で,一番その…,私は全然そういう宗教的な教育を受けていなかったし,やっぱり一番戸惑ったのは,そのへんなんですよ。その…,ドン・ジョバンニを書いた作曲家が教会のためにミサ曲を書く,そういうことが可能だということ,あるいは,そういうことをしなければならなかったっていうこと。だから,その,ヨーロッパ文化を理解するためには,どうしてもキリスト教を…,自分が信者にならなくても,ある程度,その,キリスト教的な思想っていうものは知らなきゃいけないんじゃないか…,それで,極端なことを言うならば,やはり,キリスト教的な思想が,その,ヨーロッパ文化の一つの大きな柱となっている,だから,それのアンチテーゼとして出てきたものも沢山あるけれども,それにアンチテーゼとして成り立とうということは,やはりおおもとがすごいから…

三浦 逆にね。反抗は,やはり権威がすごいから反抗が出てくる…。ぼくは,だけどね,二つあるような気がする。一つは社会的な文脈に於ける宗教と,いま一つは個人の規範としての宗教。そこに,ちょっと違いがあるような気がする。個人の規範としてあったキリスト教に関しては,これは,やっぱり大変だと思うわけ,理解するっていうのは。彼らは,たとえば,浦川さんに対してぼくがどれだけ誠実であるかとかいうふうなことの上に,神に対してどれだけ誠実であるかっていうふうなことを持ってくる。そういうふうな考え方もあると思うわけ。それが,たとえばフロイトの超自我とかにまで展開していく。で,それに関して言うとぼくらは本当にね,色々勉強しなくちゃいけないことがいっぱいあるし,勉強するだけじゃ足りないかも知れない。実感出来るかどうかもわからないっていうこともある。ところが,もう一方の,社会の中に於ける宗教の役割っていうようなことで言えば,驚くほどキリスト教と日本に於ける宗教…,仏教を中心とする宗教ってのは似てるとしか思えない。それは最初に声明のことをおっしゃったけども,声明の後だって,たとえば,念仏なら念仏でもね,全員で唱える念仏ってのがいっぱいあるわけですよ。それから,たとえば,親鸞のやった和讃とか…。あるいは,踊る宗教とかさ,踊り念仏みたいなものがあるとか,色んなものがあるわけ。で,それ以上にね,もっと探っていけば,マリア信仰と,日本に於ける観音信仰…

浦川 ああ,そうですね,対応してますね。

三浦 たとえば,マリアの像を作って拝むっていうのは,もともとは禁止されていることですよね。キリスト教に於いては…

浦川 ええ,ええ,ええ,偶像崇拝ですからね。

三浦 それが,たまたま,ヨーロッパに於ける民間信仰と結びつくことに依って成立したと,だから,あの中にはヨーロッパの民間信仰がすごく生きているわけですよね。同じようなことが,日本にも言えるわけです。日本にだってアニミズムがあったわけだし,山とか木とか,女性とか男性を象徴するような岩であるとか,そういうふうなものが,信仰の対象になるってことが,いっぱいあるわけですよ。そこんとこで言うと,とても似てると思う。フレーザーが金技篇で色々ヨーロッパの民間伝承ってのを探るわけですよね,で,それを,まあ種本ではないけれども,参考にして柳田国男なんかがやったりすると…,そうすると,その場合それが有効になるっていう土壌はあるわけですよね。

浦川 ええ,ええ,

三浦 そこのところまで考えると,違いが大きいのか,同じさが大きいのか,ぼくはわからなくなる時がある。だから,二つ考えなくちゃいけない。一つは社会に於ける宗教。そのことで言えば,もっと共通点を考えた方がいいんじゃないか,それが一つ。それが音楽とか芸術を生み出す根源になっていたのじゃないかっていうようなことね,それは考えた方がいいんじゃないか。だけども,ヨーロッパ的な一神教の伝統は,本当は日本人にはわかりえないっていうかね,その二つ…。

浦川 そうです,その両方の要素っていうのは…

三浦 浦川さんがこだわっているのは,後者の方じゃないかと思う。社会的な文脈に於ける宗教ってのはね日本とヨーロッパとたいして違わないんじゃないか。具体的な例を挙げると,ローマン・カトリックで秘蹟っていうふうなものを改めるために,なんか会が開かれたりするじゃない…

浦川 ええ,ええ,ええ

三浦 たとえば,なんとかに於ける…

浦川 宗教会議とか…

三浦 そう,それで,なんとかってところのマリアの像がね,血の涙を流したとか,流さなかったとか,それをね,これが奇蹟か奇蹟でないかってことを決定するとかって話があるじゃない。あれって,やっぱり,日本の民間宗教の話と似てきちゃうわけよね。

浦川 まったく,そのとおりですよね。で,だから逆に言うと,その非常にキリスト教っていうのは巧妙,狡猾でね,そういう,いわゆる民間伝承に入り込んでいっても,そういうことを許容してまでも,その,自分たちの宗教を広めようという,だから,それなりの信念なり,それは評価することが出来るかも知れないけど,非常にその宗教を,一つのその,言葉を憚ることだけど,企業っていうふうな意味でみるならば,非常に上手い商売のやり方ですよね。

三浦 ルッターはそれに反発したわけでしょ,で,反発したその反発だって最終的に言えばさ,マックスウェーバーじゃないけれど,資本主義の倫理になっちゃうわけ。働いて,もっと稼げば,おまえは幸福になると。で,アメリカは,それに依って成立しちゃうわけだからさ。色んな逆説がいっぱいあるわけだけども,ぼくの感じで言うと,半々だと思うわけ。キリスト教は絶対的に理解出来ないっていっちゃいけないわけ…

浦川 ええ,インスティテューションとしての…

三浦 …宗教は似てるって考えた方がいいっていう面もあると思う。

浦川 ええ,ええ,今,おっしゃった,完全に二つの面があると思うんですね,で…

三浦 でも,浦川さんが最初に宗教の話をおっしゃったのは,ある決定的な溝として宗教があるっていうことですよね。

浦川 ええ,それは,自分の中の宗教的な教養とでも言うのかしら,素養とでもいうのかしら,自分が受けてきた宗教教育というものと,あまりにも掛け離れていたから…。だから,その,自分の中にある宗教性っていうのとは,また違うんですよ。そうじゃなくて…

三浦 それはわかるんだけどね。だけど…,たとえば内村鑑三って人がいるでしょ。内村鑑三なら内村鑑三って人が,キリスト教に接近する仕方ってのを見てるとね,日本人くらいキリスト教にフィットする民族っていないんじゃないかって気がするくらいに感じちゃうんですよ。それはね,仏教もそうだけど,むしろ,武士道ですね。武士道がすごくフィットする面があるのね,特にプロテスタンティズムと。

浦川 それは,こう,自己を…なんていうかしら…

三浦 自己を律するわけ,まずね。それで名誉を重んずるわけよ。だから,神に対して自分が誠実であるってことと,自己自身に対して誠実だってことがかなり接近してくる。だから,ある決定的なところで一神教であるキリスト教は,東西の文化の理解を,こう,切断する溝みたいなものであるかもわからないけれども,しかし,それは,そういうふうに言い切れないんじゃないかなって気もするわけね,ぼくは。一方ではとにかく,社会的なレベルでは,もう同じよね。マリア信仰だって観音信仰と似たようなものだし…。そうじゃなくて,個人というふうなものを成立させた根拠としてのキリスト教っていうことを考えるとね…,ヨーロッパ的な個人っていう概念を成立させた…,従ってプロテスタンティズムになるわけだけども,つまり教会ってものは,目に見えないものなんだと,本当は個人個人の中にある,あるいは,神さまとの対話っていうのは,自分の中でしなくちゃいけないんだと…いうような考え方,それは内面ですよね。

浦川 神と自分との対決というか…

三浦 そう,そう,それは確かに違うかもしれない。ところが,内村鑑三とか,ああいった人たちを見ていると,意外なくらいにすーっと受け入れられたというのは,武士道ってのは,どうも内面の対話だと…,つまり,自分に対して自問する…,そこが似ているわけよね,すくなくとも彼を見れば。幼時の頃から培ってきた伝統と,プロテスタンティズムと,別に断絶がない。

浦川 克己の精神…

三浦 そう,そう,それが一致するわけ。で,内村鑑三がアメリカへ行ってね,一番嫌いだったことは,みなさんここに日本という野蛮な国から来た人がいて,この野蛮な人が,あろうことか,キリスト教という文明の宗教に改宗しました,みなさん見て下さいっていうふうに言われるのを一番嫌がったっていうふうな話があるわけね。で,それをやると食えるんだって…(笑)

浦川 そうですね。ただ,芸術作品の関わりというふうになってくると,やっぱり,それは一番最初に申し上げた,わからないという部分,その,違うという部分で,じゃ,一体どこが違うのかっていうんで考えてくると,皮膚の色の違いとか,ぼくは人類学のことはよくわからないけど,インドゲルマン系とアルタイ系の違いかも知れないし,こっちが大和民族で,あっちがゲルマン民族だと,その民族的な実感主義というか,そっちの方なのかとも思ったけれど…。でも,すくなくとも,西洋音楽をなりわいとするってことは,西洋文化の一部を自分のなりわいとするためには,なにか,それをわからなければ,あるいは,すくなくとも,わからなくても,わかろうとしなければ…。それをなりわいとしてやっていくために,非常に,こう,不遜な態度じゃないかというふうに考えているという…,わからないものを売るというのは…

三浦 それはまったくそうですよ,そのとおりですよ。

浦川 それは大福が甘いのか辛いのかわからないでいて,甘い大福だよって売るようなもんでしょ?

三浦 それは,そう言えるんだけれども,でも,逆にね,日本人にしても,たとえば,浦川さんとぼくが,源氏物語とか枕草子とかを,どれだけ完璧にわかるかっていうとね,ぼくはわかんないわけよね。それは,さっき浦川さんがおっしゃっておられたみたいに,彼ら,つまりドイツ人ならドイツ人が,ゲーテをどれだけわかるか,あるいは,シラーをどれだけわかるか,あるいはもっと遡ったらどうか。あるいはね,イギリス人ならイギリス人がシェークスピアをどれだけわかるか。これはわかんないわけよね。だろうと思うよ,ぼくが想像しても。たとえば,世阿弥が生きていた頃の能の理解の仕方を,今の日本人が出来てるかっていえば,そんなこと絶対にあり得ないことだろうと,ぼくは思う。だから,それで言うとね,本当は今の世界状況でいえば,全世界の人たちが同じくらいに過去の遺産に関してはね,さまざまな国の過去の遺産に関しては,立場としては同じくらいなんじゃないかなって気がするくらいね…

浦川 いやあ,その,今,最後におっしゃったことね。立場に関しては同じくらいじゃないかと,それはダブルアイデンティティーとかマルチアイデンティティーとでも言うべきことですよね。で,そういうふうに私も考えるから,こんなことを仕事にしていられるんだと思うんですよ。

三浦 えーっ,嘘でしょう。(笑)浦川さんはぼくなんかよりははるかに深くヨーロッパのこと理解されていると思いますよ。ほんとに。

浦川 たとえば,私の大変尊敬するかたでね。フランス文学を専攻なさった人…。結局おれにはフランス文学はわからないって,だから,日本文学をやるんだって…,その分野でね,とっても立派な仕事をしていらっしゃるかたがいるけれども,でも,そのかたは,もしかしたら,いま三浦さんがおっしゃったような,そういう境地っていうと大袈裟かも知れないけど…,そういう認識に立ち得なかったのかも知れない。

三浦 いや,ぼくは負け惜しみを言っているだけかもしれない。(笑)

浦川 それは,やっぱり,ジェネレーションとかね。そのかたは私なんかよりも,もう一つジェネレーションが上のかただから,それこそ社会的な状況とか,歴史的な状況とか,そのかたの育った色んな環境とかに関わってくる問題かも知れないけども…。それで,今,三浦さんがおっしゃったような,こう,なんて言うんでしょう。認識に到達して,始めて,その,日本人として西洋文化をやって…,大真面目な顔をしてやって,そして,そこでなにか,それこそ,こう,なんていうのかしら,非常に大袈裟なことを言えば,世界的に認められる仕事が出来るんじゃないか…,一生のうちに一つぐらい出来るんじゃないんだろうかと思った仕事が出来る,前提なんじゃないかと思うんですよね。

三浦 そうかもしれませんよ。だから結局ある段階から人間ていうのは,世界人としてあるしか無くなったってことでしょ?

浦川 でも,それは,その,異文化を理解しようとか…,勉強をすることによってしか…

三浦 そうです。

浦川 自国の文化もわからないわけですよね。だから,そういうなんか,つまり異文化をわかろうとする努力なしには,なにも出来ないんじゃないかっていうふうに思うんですよね。

三浦 そうですね。ぼくは,だから,そのことに関して言うと,一番思っているのは,実は,自分の国というか,いや,自分自身が最大の異文化だと…

浦川 うーん!

三浦 そういうのがあるんだ…(笑)

浦川 逆説的にそうかも知れませんね。(笑)

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三浦 雅士
Masashi Miura
  • 1946年,青森県弘前市に生まれる
  • 1964年,弘前高校卒業
  • 1969年,青土社に創立と同時に入社
  • 詩誌『ユリイカ』創刊に参加する
  • 1972年詩誌『ユリイカ』編集長
  • 1975年『現代思想』編集長を務める一方,執筆活動を始める
  • 1981年に評論集『私という現象』を冬樹社より刊行。『現代思想』編集長を辞し,執筆活動に専念する
  • 1982年,評論集『主体の変容』を中央公論社より,また評論集『幻のもうひとり』を冬樹社より,それぞれ刊行する
  • 1984年6月にコロンビア大学客員研究員として渡米し,1986年1月まで滞在
  • この間,1984年には評論集『メランコリーの水脈』を福武書店より刊行,同書によりサントリー学芸賞を受ける
  • 編集後記を集めた『夢の明るい鏡』を冬樹社より刊行
  • 1985年,評論集『自分が死ぬということ』を筑摩書房より刊行
  • 1987年,文芸論集『死の祖線』を福武書店より,評論集『疑問の網状組織へ』を筑摩書房より刊行

上記の肩書・経歴等はアキューム1号発刊当時のものです。

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浦川 宜也
Takaya Urakawa
  • 鈴木鎮一氏に手ほどきを受けた後,小野アンナ女史の門に入り1953年に音楽コンクール入賞
  • 近衛秀磨氏に認められデビュー
  • 1959年西ドイツ給費留学生として渡欧
  • 1964年ミュンヘン国立音楽大学を首席最優秀賞で卒業
  • 1965年バンベルグ交響楽団第一コンサートマスターに就任
  • 1969年ソリストとして独立
  • 以来オーケストラとの共演・リサイタル・TV・ラジオ等に活躍
  • 1979年より名ピアニスト,フランツ・ルップとのベートーヴェン・ブラームスの全ソナタのレコーディングで注目を集める
  • 1982年ワシントン・ライブラリーオブコングレスのシリーズに出演「クライスラーの再来」と絶賛される
  • 1984年4月より東京芸術大学教授
  • 1985年8月ティボールヴァルガコンクール(スイス)審査員
  • 1986年ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を贈られる
  • 1982年より京都コンピュータ学院にて「音楽鑑賞」の講座を担当

上記の肩書・経歴等はアキューム1号発刊当時のものです。