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Accumu Vol.4

教養としての伝統文化

慶應義塾大学文学部教授

檜谷 昭彦

ご紹介にあずかりました檜谷でございます。秋にも一度,京都コンピュータ学院の学生諸君にお話しする機会があって,また今度,京都駅前校のすばらしい校舎が竣工したということで,長谷川学院長からのご依頼がございまして参上いたしました。この学校は,その名の通り,コンピュータという日本の情報社会の最先端を行く技術を修得する学校であります。そういう学校に,東京の私立学校の教師がわざわざやって来て話をするっていうのはいったい何なんだろう,私自身も時々そう思うのであります。亡くなられた初代学院長の長谷川繁雄先生がこの学校を創られましたときから,現在の長谷川学院長に至るまで,「技術者というのは,あるいはテクノクラートの前線にいるような企業の戦士というのは,科学的知識や技術と同時に,日本という国の長い歴史の中から育まれてきた文化を身につけておかなければならない。そういう意味で,技術の先端を勉強する学校ではあるけれども,同時に古い日本の教養をどこか心の隅に残しておいてほしいんだ」という考え方を一貫して持ち続けておられ,その考え方に私自身たいへん共鳴するところがございました。それが,私がこの学校と多少なりともおつき合いをさせていただいている理由であるわけです。前置きが少し長くなりましたが,京都コンピュータ学院の文化講演会の有する一つの意味を,もう一度原点に戻って反省した次第でございます。

私の専門は元禄時代の小説家だった井原西鶴の文学でありまして,ちょうど今年1992年が西鶴が死にましてから数えで300年になります。つまり西鶴三百年忌が今年で,満で数えますと来年でありまして,京都と大阪の西鶴学者が中心となりまして,西鶴三百年記念祭を今年の9月6日(日)に,大阪の生玉神社と上本町の誓願寺という,西鶴の墓のあるお寺で行うことになっております。後ほど西鶴についてもお話しいたしますが,そろそろ本題にはいることにします。

日本という国にも文化というものがあると,日本人が自覚を始めたのはいつ頃からかと言いますと,大雑把な話で,随分大胆な言い方ですけれども,だいたい私は室町時代からではないかと思うんです。文化,つまりカルチャーですね。これは文明,シビライゼーションとは違います。日本の文明というのは農耕文明です。土を耕して,種を蒔いて,それを刈り取って,というのが文明です。中近東辺りですと,草原の中で羊などを飼っていく文明です。そういう文明とは異なり,日本の文明はあくまでも土を耕して,種を蒔いて,そこから出てくるものを食べるという文明です。そういう文明の中で,この火山列島の日本の国が育ってきたわけです。そして,自分達にも文化があるのだと自覚したのは,おそらく室町時代辺りではないかという気がいたします。もちろん,日本には伝統的な教養としての文化というものはありました。それは和歌,歌をつくることです。平安時代から百人一首にあるような歌をつくっていく,そういう文化がありました。また,教養という言い方をしましたけれど,教養というのと学問とは違います。日本のその時代の学問というのは,漢詩を書いたり,漢文で詩をつくったりする漢詩文でした。その漢詩文とは別に,教養として日本の国には平安時代から和歌というものがありました。学問としての漢詩文はその当時ばかりでなく,ずっと江戸時代まで続いてきています。夏目漱石なんて人も漢文を勉強していたわけで,明治時代までは勉強というと漢文をやっておりました。今ではもう漢文は流行らなくなりましたけれど,以前はそれが学問だったわけです。教養としては和歌,歌を詠むことだったわけです。つまり,男と女が話をしたり,男と女が恋を語ったりする時の道具として和歌をつくる,歌を詠む。それが日本の男と女の教養だったのです。つまりわかりやすく言えば,社交界のサロンで,男女が会話をするときに,「あの人は教養がある」というのは和歌がうまくつくれるということであったわけです。けれどもこういう教養としての和歌という文化は,平安時代から鎌倉時代にかけては貴族のものでした。貴族,お金があってちょっといい家に住んでいる貴族のものでした。私のような平民の持っている文化ではなかった。あるいは,貴族になりたいと思っているような人達がやる教養だったのです。

ところが室町時代になりますと,武士がだいぶ威張るようになってきて,武士だってただ喧嘩が強いだけじゃないんだ,おれ達にだって少しは教養ってものを身につける才能があるんだ,そう考えるようになってきました。京都には,武士がおれ達にだって文化があるぞと,文化を形に表したものができてきた。例えば,足利義満は金閣というお寺をつくりました。金閣寺,お寺の建物に金を張っちゃったんですね。その五代後の足利義政という人は,「五代先の義満が金でお寺をつくったから,自分は銀でつくる」って言って,今度は東の方に銀閣寺をつくりました。この義政という人は,まず政治的には能力が全くなかった。それじゃ,政治的才能がないから,あと何があったかというと,お金もなかった。祖父の真似をして,金閣寺に対して銀閣寺なんてものをつくっちゃったもんだから,銀もろくに張れなかった。ろくに銀も張れないし,あのお寺が全部完成しなかったんですね。金閣寺の方は全部できあがったんだけれども,銀閣寺はできあがらない。未完成なんです。だけども,あれ文化でしょ。金閣とか銀閣っていうのは文化ですよね。高校生の修学旅行っていうと,だいたい金閣寺と銀閣寺っていうのは行く。それはやはり,高校生の修学旅行で見せておこう,というふうに,先生方が思うようなものなんですね。しかも将軍足利義政っていう人は,歴史的役割からいっても,学問的にいっても,政治的にいっても,さしたる業績のない人です。それで銀閣寺は未完成なんだ。だけどあれが文化なんですね。ちょっと思いきったこと言うと,私は日本人の持っている文化というのは,ああいうものが一番ふさわしいんじゃないかと思うんです。金閣寺というのはどうも嫌いです。あまり好きじゃない。三島由紀夫の「金閣寺」に出てくる主人公は,あれ燃やしちゃいますね,銀閣の方は燃やさない。どうも日本人の好むものというのは,金はいやだけれども銀はいい。ゴールドじゃなくて,シルバーの方がいい。なんか,銀の文化というようなものが,日本人には好まれるのではないかなというふうな気もいたします。室町時代に,そういうふうな妙な自覚が出てきたんですね。武士が文化というものを自覚して,はじめ,金でお寺をつくってみたけれども,銀の方がいいかなと思うようになった。平安時代には,男と女の教養として和歌というものがあったわけだけど,和歌じゃどうもだめで,和歌の上の句と下の句を切り離して,そこを二人で合作してつくった方がいいかと思うようになって,連歌というものがつくられます。和歌というのはどちらかと言えば,金閣寺みたいな金の文化。それに対して足利時代,室町時代に武士達が,連歌の方がいいんじゃないかと思う,これが銀の文化。つまり,確かに和歌よりはちょっと劣るけれども,一人でつくる和歌よりも,上の句と下の句を二人で合わせてつくる連歌にしてみようというような,そんな銀閣寺みたいな,そういう教養。こんなものが生まれてきたんですね。和歌じゃなくて連歌でいい,金閣じゃなくて銀でいい,銀の方が渋くて,つまり,一流品,一級品というものはあまり面白くなくて,一級品よりは少しずれた二級品で我慢しよう,そういうふうな思い込み,そう思いたがる文化,そういうのが室町時代から出てまいりました。こういう考え方,こういう思い込みのやり方を「数奇」と言ったんです。数学の数という字を書いて,奇妙奇天烈の奇という字を書く。「数奇」というんですけれども,そういう文化・教養が,室町時代に生まれてまいります。凝るんですね。あんまり生活に役に立たないし,人からは「あいつ,変なもんに凝ってやんなァ。」って言われるけれど,そういうものを好んでいく,一種のオタク族。オタク族の文化というのが,室町時代の数奇というもんであったんでしょう。そういうところから,茶の湯というものが生まれてくる。三畳くらいの小ちゃな,情けないお座敷の中でお湯を沸かしてですね,お茶の粉を入れてかき回して,小さなお菓子を食べて,で,茶碗をほめたり,小さな床の間にかかってる一輪ざしの花をすばらしい,と言ったり,大きな花瓶に,チューリップが生かってるんじゃない,小さな竹筒にちょこり色花が生かっている,そういうものを楽しむ。つまり,豪華な社交界のダンスパーティじゃなくって,三畳くらいの座敷の小さなところで,お茶を飲んでる。それを数奇と言ったんですね。江戸時代になってきますと,数奇っていうのがもうちょっと堕落しまして「道楽」になるんです。道楽,道を楽しむ。道楽っていうのは歌舞伎芝居に凝ったり,下手なのに義太夫を語ったり,踊りを習ったり,芸者さんを呼んで芸者遊びをしたりということです。芸者遊びというのは断っておきますが,セックスというのは全然はいりません。セックス抜きの女性との遊びです。そういうふうなものが道楽というものだったんですね。これが江戸時代には非常に流行りました。道楽をする。これが明治時代から大正の初めぐらいになりますと,まだその頃は自動車があんまりありませんでしたから,自動車に乗る,馬に乗る,乗馬を楽しむ,それからダンスをする,ビリヤードに通う,モーターボートに乗る。こういうふうなものが明治以降道楽でした。これはたいへんお金がかかる。こういうのはですね,自分の仕事とか,自分の勉強とは関係がない,全く関連がない。関連がないと同時に,趣味とも違う。だって自動車に乗ったり,モーターボートを動かしたって,芸者さん呼んで遊んだって,なんの得にもならないし,生活の足しにもならない。自分の会社の儲けにもならない。つまり,なんの役にも立たないものに一生懸命になる。それが道楽というものでした。私が勉強している元禄時代の小説家 井原西鶴という人は,江戸時代の町人,この京都や大阪の町人の生活を描いてすぐれた小説を随分残しましたけれど,そういう小説作品の中に『日本永代蔵』っていう小説があります。その『日本永代蔵』の中で次のようなことを西鶴は言っています。「人は十三才迄はわきまへなく,それより廿四五までは親のさしづをうけ,其後は我と世をかせぎ,四十五迄に一生の家をかため,遊楽する事に極まれり」。わかりやすく申しますと,人間というのは十三歳くらいまではわきまえがない。十三というとだいたい小学校を卒業するくらいですね。人間っていうのは十三まではわきまえがない,分別なんてないんだ。だけども十三過ぎたら二十四,五までは親の指図を受け,親のいうことを聞いてがんばれ,で,その後は四十五まで我と世をかせぎ,っていうんですから,二十四,五から四十五までの二十年間は,我と世をかせぎ,自分で仕事をしろ。そして四十五までに一生の家を固める。四十五までに家庭を持って,できることなら家くらいはつくる。その後何と言っているか,「遊楽する事に極まれり」。四十五から先は遊楽,遊び楽しむことに極まれり。それから先は,遊んで楽しめって言ってるんです。元禄時代の町人っていうのは,これが人生観てした。この時代の人は,だいたい人生六十年。今,NHKの大河ドラマで「信長」やってますが,あの中では「人生五十年,下天のことをくらぶれば,夢,幻のごとくなり」と言っています。あれは人生五十年だったけれども,だいたい元禄時代は,人生は六十年でした。私は今六十三歳ですから,江戸時代に比べると三年余分に生きている。だけど江戸時代は六十で終わってた。六十で死ねるんですから,四十五までに家を固めて,四十五からは遊び楽しむ,遊楽することに極まれり,と西鶴さん言ってるんです。そうすると六十まで十五年間ありますね。人生六十年のうち,十五年間は遊び楽しめ,道楽しろ,思いりきリ遊んじまえ。自分が貯めた銭,貯金した年金,そっくり使って,自分の一番したいことをしろと,私が研究している西鶴は言ってくれているんです。そうすると六十年のうち,十五年間楽しむために四十五年間がんばればいいんですね。これはつまり,人生のうち25パーセント楽しむために,75パーセントがんばれって言ってるんです。元禄文学というものが,今の平成の私達に教えてくれていることはそういうことなんです。これはいい考えだと思いませんか。死ぬまで慟いて,退職金もらって,家建てて,お子さんつくって,お子さん,専門学校や大学に入れる。何が残ります,あなた方に。それでその子が,あなた方の子供が,あなたが死んじゃった後,相続しますな。相続税でそっくり退職金もっていかれちゃいますね。また,あなた方の子供はあなた方と同じように,一から全部やっていかなきゃならない。元禄時代の西鶴のように25パーセント遊ぶ時間がないんですよ,今の時代は。情報化社会の中で,技術の最先端で一生懸命やって何が残るんでしょうか。文化ってものを自覚した室町時代以降,江戸時代の人の方がどこかよかったんじゃないか,というような気がしないでもありません。日本という国のためには,銀閣寺をつくった足利義政って人は,何の役にも立たなかった人かもしれませんけれども,彼は銀閣という寺を残してくれた。そしてずーっとその後,私達はあの寺を見てはいろんなことを考える。銀閣っていう寺がなくたって,コンピュータ産業ってものとは全く関係がない。だけど,ああいうものがある。これが文化なんてすね。で,そういうものに私達はひかれてるんですね。だとしたら,そういったものをもう少し大事にしていく,そういうものについて皆さんが自分で考えてみる。

さて,皆さんにお配りした,この紙を見ていただきたいんですけど,難しいことが書いてありますから,私が適当にごまかしてお話しします。この一番初めの『西鶴織留』という小説の中の,この文章にあるのは,次男坊がどういうことをしたかというと,「四座の直傅をならひ請,連歌は新座池へ立入,俳諧は難波の梅翁を里にむかへ,立花は池の坊に相生迄習ひ,鞠は紫腰をゆるされ,茶の湯は金森の一傅」云々と書いてありますね。これは,まず謡曲,「四座の直傅をならひ請」というのですから,観世流と宝生流と金春流と金剛流という謡曲の四つの流派を全部勉強したっていうんです。次に連歌,「新座池へ立入」と書いてありますが,新座池というのは今で言いますと,京都の地下鉄に乗りまして,丸太町で降りて,一番北の方から階段上がると,京都の御所ですな。蛤御門ってありますね。あれは昔,新座池門という名前だった。天明年間に,京都,大火事がありまして,その時にあの門を開いて,京都の人達をみんな御苑の中に避難させたんです。今まで開かずの門だったのを火事になって初めて開いたので,「焼けてロ開く新座池門」と京都の人が言ったんです。焼けて口開く門だ,それで蛤御門と言ったわけです。蛤御門の変ってのが幕末ありました。蛤御門が面している通りは鳥丸通りですね。あれから二本東の方にあるのが東洞院の通り(あそこは出水通り,出水通りと長者町通り,下長者ってありますけど,その間),蛤御門を中心にして,今は京都御苑の中で皇宮警察と宮内庁がありますが,以前は,あそこに京都のお金持ちと文化人が住んでいたんです。そこへ立ち入り,というんですから,つまりその次男坊はそういう人とつき合っていた。そして,そこで連歌を習った,こういうわけなんです。「俳諧は難波の梅翁を里にむかへ」,これはどういうことかというと,これは井原西鶴の師匠にあたる西山宗因に俳諧を習った。「立花」,これはお花。これは池坊さんに習った。「鞠は紫腰をゆるされ」,鞠は蹴鞠。紫腰,つまり紫色の袴をはいてもいいって言われるのは,一番蹴鞠では偉かったんですね。そういうことまで習った。めちゃくちゃにこの人は趣味として道楽を極めた。「楊弓は一中がゝりに大金貝の看板」は,三十三間堂の通し矢。三十三間堂で弓を射る。200本のうち150本当たると,大金貝の看板ってのをもらえたっていうんです。そういう,ものすごい人だった。この人,神戸の町人の息子なんですけどね,神戸の町人でこの京都まで出ばってきて,こういうことやった。それが江戸時代の道楽だったんですね。その次の二番目の方,室町時代の足利将軍は連歌が好きだったけど,江戸時代の町人は何をやったか。俳諧をやった。今でいう俳句。俳句とはいったって,和歌の伝統を引いてる俳句だぞっていう自覚を持っていた,ということを言っているんです。つまらないプライドですけど。おれ達町人は俳諧をやってるんだけれども,その俳諧は平安時代からの和歌の伝統を引いている俳諧だっていうことを言いたかった,それだけの教養を持っていたということなんです。次の二枚目のところに書いてあるこの文章は,これは京都の室町ですから,今でも室町通り,呉服屋さんのある通りです。その京都の室町にいた呉服屋さんの息子は,何にも商売しないで善五郎などを頼んだ。善五郎っていうのは今でいう銀行。何の商売もしないでお金があるもんだから,大黒屋善五郎っていう銀行にお金を入れたんですね。すると毎日二百三十五匁,利息がはいった。京都と大阪っていうのは,二百三十五匁の利息っていいましたけど,銀貨なんです。江戸はそれに対して小判一両とか十両とか,一朱とか二朱とか言いますが,これは金貨なんです。大阪,京都は銀で目方を計ってるんですよ。銀の文化っていう意味,わかりますね。銀の目方で五十匁が金一両。百匁っていうのがね,牛肉の四百グラム,あの目方の半分,それが五十匁。これが金一両。金一両は,今,円に換算すると二十万円,二十万円です。そうすると,ひと月三十日の計算で円に換算すると,利息だけで三千万円はいったんです。それが15年のうちにこのお金がなくなっちゃった。で,江戸に稼ぎに行った,って書いてある。月三千万円ずつ利息がはいるのに,15年間で使い果たして,彼は困って江戸に稼ぎに行った。このことから,江戸という都会がどういうところかわかりますね。江戸というところは稼ぐ場所なんです。上方で銭使って,金がなくなったら,江戸に行けば働けたんですね。そして一番最後のところに,「もつ共,六十年はおくりて,六日の事くらしがたし」,つまり人生六十年だ,ということを言っている。じゃ,元禄時代のこういった文化,お金を使って道楽して,あんまり自分の仕事には身を入れないで,それで遊んでいる,というこういう文化。一体何でこういう文化が生まれてきたんだろうか,ということなんてすね。ここに持ってきたこの本は,アメリカの人で日本文学の権威である,ドナルド=キーンさんが語った本ですけれども,この本の中で「日本人の女の人は,ヨーロッパ人より肌が白い」とか,そんなことまでポルトガル人やスペイン人の宣教師は言っているのです。要するに,彼らにとって日本人はヨーロッパ人と変わらない人間だと思っていたのでしょう。傑作なのは,ポルトガル人達が一番困ったことは,どこで唾を吐いたらいいのかわからないことだ,という記録ですね。ヨーロッパの家なら平気で唾を吐いたようですが,日本の家の中はあまりにも清潔で,困ったそうです。そういう点では,日本は自分の国と違うと思ったのでしょうけれども,日本人がヨーロッパ人より遅れているという考えはなかった。そういう考えがありましたから,日本人とポルトガル人はうまくつき合えたんじゃないかと思うのです。太閤秀吉は北野の茶会の時,「日本の儀は申すに及ばず,数奇の心がけ,これあるものは,唐国のものまでもまかりいづべく候うこと」,要するに外人でも来いと,そういうふうなことを言ったのでしょう。「今の日本人は外人が来ますと,私の経験から言いましても,皆,ある程度緊張する。外国人の前でそういうことをするとおかしいとか,外国人の前でこういう話をしてもいいでしょうか,とか。当時の日本人には,そういう考えは全くなかったようですね。」ドナルド=キーンさんはこういうことを言ってるんです。太閤秀吉が京都の北野の天満宮で,すごいお茶会をやったんです。そのお茶会をやったときの記録をドナルド=キーンさんは,こういうふうにひいて言ってるんです。「日本の儀は申すに及ばず,数奇の心がけ,これあるものは,唐国のものまでもまかりいづべく候うこと」って。秀吉はこのおふれを出した。外国人でも来ていいぞ,茶会に来ていいぞ,もしも,茶なきものは,お茶を持ってない者でも来い,誰でも来ていい。「茶なきものは,こがしにても,くるしからず候うあいだ」,つまり麦こがしでもいいから,それを持って遊びにおいで。こういうことを秀吉は北野の茶会の時に言ったんですね。つまり,秀吉あたりから始まる江戸時代の日本の文化というのは,銀閣寺と同じように,役に立たない茶の湯ではあるけれども,外国人でもいい,お茶葉がない人なら麦こがしでもいい,誰でも来い,という,そういう文化を,秀吉以降の日本の江戸時代の人達は作り上げようとしていた。つまりここには,貴族も,武士もない。町人も,農民もない。外国もなければ,日本もない。お茶の好きな者は全部,北野の天満宮に集まって,一緒にお茶を飲んで楽しもう。こういうことを言ったんです。私はこれが文化だと思う。そういうもののために,人生の25パーセントくらいは割いたっていいんではないか。ただ単に,産業戦士となって,情報社会の中で,働いていくばかりが能じゃない。そういう気持ちがあなた方,若い世代の中に育ってくるならば,私は日本という国は,まだまだ捨てたものじゃないだろうと思うんです。こういうふうな気持ちを持ってくれるならば,もう少し日本にも期待が持てる。若いあなた方が,そういう文化というものを,教養というものを考えたならば,もう少し,これから先の皆さんの,皆さんが作っていく,皆さんの日本という国も,期待が持てるんじゃあなかろうかと思うのです。

ところで今,NHKのテレビドラマで「信長」をやっています。信長は武田信玄や,武田勝頼のやり方と違って,鉄砲という武器でもって武田軍をやっつけますね。武田軍っていうのは馬に乗って長い槍を持って,一気に突き進んでくる戦術を使いました。その戦術に対抗するために,信長が発明した戦い方というのは,鉄砲を揃えて,鉄砲の一斉射撃で相手を,馬も人間も,もろともにやっつける方法でした。そのために,信長は,秀吉は,そして家康もそうですけれども,鉄砲を何千丁と用意しました。そして武田軍をやっつけた。鉄砲,これが信長の作戦,秀吉の作戦,家康の作戦で,ようやく天下を統一したんです。ところが,そうやって天下が統一されて江戸時代になった。家康という人はそれから先,鉄砲を使うことをやめてしまいます。船も今まで通りの船で,それ以上いい船を作ることをやめてしまいます。家康達が,信長や秀吉が,天下を統一するために,あれだけすばらしい近代兵器を整えていったのに,日本の国が平和になって徳川幕府が成立してからは,鉄砲を作るのをやめてしまう,軍艦作るのやめてしまった。だけども江戸時代,262年間,戦争がありませんでした。武器を作らなかった。軍艦作らなかった。家康から十五代将軍の徳川慶喜が大政奉還をするまで,鉄砲も作らない,軍艦も作らない。だからアメリカのペリー提督が軍艦率いてやってきたときに,日本の国,大騒ぎしましたね。だけども262年間,戦争がなかったんですよ。こんなのは世界の歴史の中で日本だけです。ところが明治維新になって,明治になってから,明治,大正,昭和,120年間です。これ,120年間の中で何回日本は戦争したんでしょう。ところが,江戸時代には全然武器を持たず,ろくすっぽ仕事もしないで遊びほうけてた。それで文化ってものがあった。文化というのはですね,国が助成金を出して育つもんじゃないんです。文化というのは一人一人の心の中から,自然に文化ってもんを作っていこう,日本の国で私達がやらなきゃならない遊びは何だろうか,ということを考えることから生まれてくるんですね。そういう意味で,全く意味がないことの中に,あるいは皆さんがこれから生きていく上で,一番大切なものが隠されているのではないか,という気がします。だいたい私の学問なんてのは,いくらいい学問であったって,株の値段が上がったり下がったりするはずがないし,日本のお米が良くなることでもない。だけど,文化ってものがあったっていいんじゃないか。京都コンピュータ学院の皆さん,コンピュータをやりながら,そういうことを考えてもいいんじゃないか。コンピュータという機械は正確ですけれども,コンピュータという機械の中には,これはいい,あれは悪いとか,これは道徳だ,これは道徳からはずれる,という判断はないんですよ。判断力を持っていない。これは楽しいぜ,これはつまらないぜっていう判断があるのは人間なんです。そういう意味で,コンピュータというものの中に,そういう人間の精神というものを吹き込んでいくために,教養として,あるいは一人一人の楽しみとして皆さんが考えていく,人生25パーセントというものが残っているのではないか,という気がするんです。だいぶ長くなって申し訳ありません。これで終わります。

(京都コンピュータ学院京都駅前校舎竣工記念フェスティバルより)

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Teruhiko Hinotani
  • 慶応義塾大学文学部教授

上記の肩書・経歴等はアキューム4号発刊当時のものです。