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Accumu Vol.4

京の伝統芸能 能そして歌舞伎

演劇評論家 権藤 芳一

能

芸能というのは,時代の民衆-最近の言葉で言うと,「送り手」と「受け手」というものの関係の中で成り立っていくもので,その時代時代の特色をよく表しているものです。したがって,中世には中世の,近世には近世の,それぞれの芸能があります。ここでは芸能について,少し古いところから振り返ってみましょう。

芸能というのは,もともとは,神様に捧げるとか,見て頂くとか,お願いするとか,感謝するとか,そのような時に行う宗教的な行事でした。それが今日のように人間の楽しみ-娯楽として庶民に親しまれるものになるまでの間にはいろいろな変遷がありました。

日本は,外国と交流し始めるようになって,日本の政治,経済,文化が諸外国と比べて遅れていることに気づいた時から,一生懸命それらに追いつこうと努力してきました。およそ,紀元500年頃から,中国や朝鮮と盛んに交流し,留学生(遣唐使や遣隋使)を送り,文化や知識を次々に取り入れました。そしてそれらをすっかり模倣して文化制度を改め,諸外国に追いつこうとしました。このようにして取り入れたものの中に芸能も含まれていたわけです。日本は,この頃中国,朝鮮,ベトナム,中近東などから取り入れた芸能を,雅楽寮(今でいう国立音楽学校のようなもの)を作って,そこで一生懸命勉強し,模倣しようとしました。

このように,芸能は,諸外国から取り入れられた当初は,他の外来の文化や知識と同様に模倣することが中心でした。ところがこのような傾向は,紀元794年,京都に都が遷され,日本語の表記法として「仮名」が発明された頃から変化します。諸外国から取り入れた文化を模撃するだけではなく,日本風にアレンジする(国風化)風潮が盛んになってくるわけです。中でも文学の発展はめざましく,「源氏物語」をはじめとして様々な名作が生まれます。このような風潮の中で「源氏物語」の完成する紀元1000年頃には,芸能も日本化してきます。

「新猿楽記」という本には当時(平安時代)の都で行われていた様々な芸能の様子が,細かく書いてあります。

このような芸能の中から中世の,いわゆる南北朝内乱期になると「能」ができあがってきます。能は,当時,大和猿楽,近江猿楽と言われ,今の奈良県や滋賀県にそのグループ(今風に言えば,劇団)が形成されていました。そしてそれらのグループは,それぞれの地域の神社,寺(奈良県で言えば,春日大社,法隆寺,滋賀県で言えば,日吉大社,延暦寺)に属して庇護を受け,能を行っていました。1375年頃これらのグループのうち観阿弥(当時は,観阿弥という名前ではありませんでした)がいた結崎座が,いち早く自分達の芸をより多くの人に観てもらい,より洗練していこうという目標を持って都市(つまり京都)に出て行き,興行することを計画します。結果,彼らはこの計画を成功させるわけですが,このことは,能が日本の代表的な芸能としてその地位を獲得する上で重要な意味を持っています。ここでこのエピソードについて少し詳しく紹介しましょう。

先にも少し触れたように,能は地方で発生した芸能のうちの一つにすぎませんでした。その能を日本の代表的な芸能として世の中に認めさせる大きなきっかけを作ったのは観阿弥がいた結崎座なのです。能をはじめとした,当時の芸能を行っていた人達は,多くの人に自分達の芸を観てもらい,世に知らしめ,より洗練していくために,何とか都市(京都)へ出て,興行しようといろいろ努力しています。そういった努力を最も上手に行い,一番最初に成功させたのが観阿弥達であると言えるでしょう。それでは,観阿弥達の努力のどこが優れていたのか,興行を成功させるばかりではなく,能を日本の代表的な芸能としで世の中に認知させるきっかけを作ってしまうほどの努力とは何だったのでしょうか。

観阿弥達は,興行計画に,当時としては非常に革新的なアイデアを二つ盛り込みました。この二つのアイデアを実現したことが,その後の能の位置づけに大きな効果を与えたわけです。そのアイデアのうち一つは,時の将軍足利義満を招待しようという試みでした。これを実現したことによる効果は非常に大きかったと思われます。なぜならば,結果としてその普及について国家レベルの支援を受けこれることになったからです。当時は,ようやく南北朝の統一が済み,時勢が落ち着き始めた頃で,足利義満は政治ばかりではなく,それまで公家にリードされてきた文化面も独自に展開していこうという意欲に燃えていましたので,足利義満に能の魅力をアピールできたことで,彼の構想にうまく乗ることができたわけです。もう一つのアイデアは,能の「しきたり」を思い切って廃したことです。それまで能は,正月にどこそこ村のなになに広場で行うとか,なになに神社のいついつのお祭の日に行うとかいうように,だいたい決まった日に決まった場所で行われていました。さらに,能の一番初めに行う「翁」という儀式的な芸能を行う役者は,一座の「宿老(いわば長老)」と決まっていました。観阿弥達は,この「しきたり」を敢えて廃し,開催日を足利義満の都合に合わせ,なお且つ「翁」を当時のスターである観阿弥が行うことにしたのです。観阿弥達の目標は,先にも述べたように,自分達の能を広く世間に認知させるとともに,洗練していくことであって,この興行計画には,そのための第一歩として,時の権力者に認めてもらおうというねらいがあったわけです。ですから足利義満を招待するという大事業の実現の他に,足利義満に自分達の能の魅力を強くアピールするということも実現しなければなりませんでした,それゆえに足利義満の都合のいい日に開催した上,年寄りの宿老ではなく,若々しくて,芸能スターであり,結崎座の劇団長である観阿弥を「翁」に起用し,足利義満に彼らの能の魅ガが与えるインパクトをより一層強調しようとしたわけです。このような努力や工夫の末,観阿弥達は興行の準備を整えました。そして1375年,京都の今熊野神社の大きな楠(この楠は,今でもみられる)のあたりで行われたと言われる観阿弥達の興行は,足利義満にたいへん感心されることとなり,彼の独自に文化をリードしようという構想に基づいて後援を受けることになるのです。

以上のような観阿弥達の努力や工夫は,能が国家レベルで支援を受けながら,世の中にしっかりと認知される基盤を築いただけではなく,神様のための宗教的な行事であった能を人間の娯楽として発展させるきっかけをも作ったわけで,日本の芸能史上非常に重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

能の発展に重要な意味を持つ要素のうち,次にクローズアップすべきものは,観阿弥の息子であった世阿弥(これも初めは世阿弥という名ではありません)の存在です。足利義満が観阿弥達の能を後援し始めた頃,世阿弥はまだ子供でしたが,この頃から彼は非常に能がうまい上に,早くから観阿弥に貴族的な文化について特訓を受けていたため,歌を詠み,連歌を繰り,蹴鞠をすることができ,さらに当時の芸人としては珍しく学もあり,また非常に美男子というか可愛らしい子供でした。足利義満は,そんな世阿弥をすっかり気に入り,京都に新しく建てた足利幕府の本拠地,今の同志社大学の新町校舎があるあたりに,四季折々の樹木を植えたために「花の御所」と呼ばれていましたが,そこに世阿弥は住まわせてもらうことになるわけです。この御所は,いわば当時の文化サロンのようになっていたので,世阿弥は,いろんな人から話を聞いたり,本を読んでもらったり,当時では簡単に手に入らなかった「源氏物語」や「平家物語」を読んだりして,しっかりと教養を身につけていくことができました。

余談になりますが,文化サロンに出入りする貴族の中から世阿弥のファンになるものがたくさん出てきます。彼らは世阿弥のところにプレゼントをどんどん持ってきて世阿弥を喜ばせました。はっきり言えば,多少,男色の気があったのかもしれません。「あなたは大変きれいで,美しい,見ているだけでポーとしてくる」というような内容のラブレターを送る貴族さえいたようです。また一方では,芸人など乞食同然であるにもかかわらず,その子供を義満がかわいがったりひいきしたりするのは,将軍として誠にけしからんといって憤慨する貴族もいたようで,実際そのような内容の日記も残っています。

このような環境の中で,世阿弥は,教養を身につけ,芸を磨き,能という芸能のレベルをどんどん上げていき,地方の芸能であった能を「源氏物語」や「平家物語」などの文芸作品をベースにした舞台芸能にアレンジしていくとともに「幽玄」という貴族が和歌の上に追究した美学を能に取り入れていこうと努力します。

このあと足利義満が京都の北山に大きな別荘(金閣寺)を建てるわけですが,この時に,ここに後小松天皇を招待して能を観せます。これが初めての天覧能であったわけですが,このことは芸能史上注日すべき出来事のうちの一つに数えられるといってよいでしょう。これを観た天皇や貴族達は,非常に感心して,能のすばらしさを理解し,それまで軽んじていた「芸能」を洗練された格調の高いものとして見直すようになります。そして,芸能というものが注目され始め,そのことが,それを行う人達により一層の努力を促すこととなり,芸能はますますそのレベルを上げていくのです。このような傾向の中で,地方の劇団が次から次に京都に集まってきて,それぞれが発展の道を歩み始めるのです。このように能の歴史は,そのまま日本の演劇史であるとも言えるのです。

これ以後も,能は代々の将軍によって庇護されていきますが,京都で「応仁の乱」が起こるとだいぶ状況が変わってきます。

応仁の乱によって将軍の権威が失墜し,将軍が逃げ回るような状態になると,能はそれまでのように将軍の庇護を十分には受けられなくなってきます。つまり将軍は能楽師達のために推薦状や紹介状は書いてやるのですが,経済的にはあまり援助しなくなるのです。それゆえに,能楽師達は,自分で生計を維持しなくてはならなくなり,将軍に書いてもらった推薦状や紹介状を携えて,地方に下ったり,京都の町中へ出たりして,入場料を取って興行するようになります。

能

ここで能は一つの転換を迫られます。「不特定多数のお客さんに集まってもらい,入場料を払ってもらう」という条件をカバーするために,あまり難しいもの(つまり源氏物語や平家物語)よりも大衆ウケするものをやる必要が出てくるわけです。そのため能はだんだんと派手でショー的なものに移り変わっていきます。これが発展していくと,歌舞伎になるのですが,能は,その一歩手前まで大衆化していきます。このように能が大衆化していく中で,貴族や武家の間で「謡講」というものが流行しだします。

能というのは不思議な芸能で,それを観た人に「自分も能をやってみたい」という気持ちを起こさせる性格があります。ですから,当時それを観た貴族や武家達の中にも,そのような気持ちにさせられた人達が結構いたわけです。しかしながら実際能を上演するとなると,セリフや音楽を全部憶えなければなりませんし,装束を揃えなければなりません。ましてその装束を着けて身動きしなけれぱならないとなると,そうそう手軽にできるものではありません。そこで当時の貴族や武家達の間で,能の「謡」(脚本朗読のようなもの)だけを謡う「謡講」が流行し始めます。謡であれば,本を見ながら謡うので憶える必要がなく,一人で楽しむことも,何人かで,それぞれ役を決めて楽しむこともできたからです。このような謡の手軽さや楽しさと,彼らの「能をやってみたい」という気持ちが謡講を流行させるわけです。当時の京都では,貴族や武家達の間で,謡講のグループが作られたり,謡本を筆写して集めたりというようなことが盛んに行われていました。またこのような中から「手猿楽」(今でいうアマチュア劇団。手猿楽の「手」は手料理の「手」と同じで「自分でやる」とか「素人の」というような意味を表している)というものが起こってきたりして,かなり広く芸能が普及していきます。

戦国時代を経て,近世-徳川時代に入ると,能は大衆の娯楽ではなく,武士の芸能であるという考え方のもとに「式楽化」されてしまいます。そして能に携わる人達は,国家公務員的な扱いを受け,江戸に召集され,江戸詰めにされます。ですから観世座,金春座,金剛座,宝生座といった能の家元は,全て江戸へ行ってしまいます。このようにして,せっかく大衆化の方向にあった能は,再び奉り上げられ,庶民にとって縁遠いものになってしまうことになるわけですが,京都では能と一般大衆とがそれほど分離しませんでした。

それは,一つには「禁裏お能」(禁裏は御所,天皇を意味する)が頻繁に行われていたことが深くかかわっています。後小松天皇以来,天皇というものは何かにつけて能を観てきたわけですから,能楽師達が江戸に召し上げられてしまったとはいっても,やはり時々は能を観たくなるわけです。しかしながら能楽師達は江戸に行ってしまっていて,京都にはいませんから,天皇が能を観ようとすれば江戸から彼らを呼び寄せる必要があります。彼らを呼び寄せるには,当然費用がかかります。ところが,当時の天皇にはそれほど経済力がありませんから,能を観たくなる度に彼らを呼び寄せることなどできないわけです。そこで天皇は,能が観たくなると地元の手猿楽の人達に頼んで能をやってもらうようになるのです。彼らはアマチュアで,しかも地元にいるわけですから,能をやってもらってもそれほど費用がかかりません。しかも彼らの中には玄人はだしの芸ができるグループもあったので,時々能を観たくなる天皇には非常に都合が良かったのです。このようにして京都の御所では,正月,改元,即位などの際に儀式として行う〈表向きの能〉と,何にもないが何となく天皇が能を観たい気分になった時,例えば月見の後や節句の後に行う〈内々の能〉の二種類の「禁裏お能」が行われるようになります。このことによって手猿楽の人達は,御所で天皇に観てもらうのだから自分達の芸を向上させなければいけないということで,江戸の家元のところに行って教わったりしながら,それまで以上に自分達の芸に磨きをかけていくようになります。このように,京都では禁裏お能が頻繁に行われることで手猿楽の人達の活動が活発になり,能と庶民との触れ合う機会が結構あったわけです。

もう一つの理由は,京都には大きな神社仏閣が多かったことが関係しています。大きな神社仏閣には,必ず能舞台があります。そして,それらのお祭の日になると,そこで能を行うのが普通です。一月は松尾大社,二月は稲荷神社,三月は本願寺,七月は八坂神社,十月は今宮神社,という具合にほとんど毎月のように,どこかでお祭の余興として能を行っています。これらはみんな無料です。この状況は当時も今も変わりません。したがって,当時の京都の人達はみんな大人も子供を能を観る機会が非常に多かったのです。

能

以上のように,能や謡は当時の京都でかなり普及していました。そして,そのような状況の中からまた「便用謡」というものも生まれてきます。当時の人達が憶えておくことを常識としていたような事柄,例えば町の通りの名,歴代の天皇の名前,東海道五十三次の駅名,服喪の期間,源氏物語の題名,九九などを憶え易くするために七五調にし,節をつけて謡にする。この謡を使用謡というわけですが,この便用謡を作って子供達に憶えさせ,常識を身につけさせる。また大人は大人で,おつき合いの席で謡を謡い合う。このようなことも盛んに行われるようになってくるのです。

このように京都では,早くから能や謡などの芸能が一般の人々の中にかなり浸透していたわけで,非常に文化的な都市として歴史を重ねてきているのです。

話を徳川家康が征夷大将軍になった,1603年に戻しましょう。この年,京都に出雲阿国という人が登場してきて,歌舞伎踊りをやります。今は,歌舞伎というとちょっとしたブームになっていて,「歌舞伎」はその名の通り,歌,舞,劇的要素の三つがうまく混ざり合った,いわばミュージカルだと言われますが,実は「歌舞伎」というのは当て字です。もともとは,ひらがなで「かぶき」と表記していました。「かぶき」という言葉は,「かぶく」という言葉から来たもので,「かぶく」というのは,「傾ぐ」という意味を表しています。つまり,まっすぐに立っているものに対して傾いているのが「かぶく」なのです。この言葉には,正常なものに対する異端,あるいはオーソドックスなものに対するバロックというような感覚が込められています。ですから,当時は,保守的で常識的な人から非難を浴びそうな扮装や行動を「かぶく」と言ったり,そのようなことをする人,いわゆる不良を指して「かぶきもの」と言ったりしていました。出雲阿国の踊りが「かぶきおどり」と言われたのは,この時分には,能という芸能がかなり普及してきていて,世間から正統な芸能は能であると認知されていたので,出雲阿国の踊りは常識はずれの芸能というとらえ方をされたからであるとも言えるでしょう。

出雲阿国は,登場して以来,様々な扮装をしていろいろな踊りをやっています。今でも,出雲阿国に関する絵が残っていて,その扮装や踊りの様子をうかがうことができますが,それらについて少し紹介すると,出雲大社の神子さんというふれこみで,出雲大社を修復するための寄付を募っている様子,尼さんの恰好をして鉦を叩いて念仏踊りをしている様子,男の若衆の恰好なのですが,鉢巻を巻いて,非常に色のきらびやかな袖無羽織を着て,細身の刀を持って,さらに首にロザリオをつけるという,当時としてはかなりめちゃくちゃな扮装で踊っている様子などがあり,非常にバラエティーに富んでいます。このような出雲阿国の踊りが大変な人気を集めます。出雲阿国は,これらの踊りを四条河原で踊ったと,一般には言われています(これは,正確には少し違うのですが,ここでは細かい説明を割愛します)。ですから,最近四条川端の南座が新しく改装されましたけれども,その楽屋ロの方に出雲阿国発祥の地という碑が立っています。このような出雲阿国の踊りは,非常に流行し,みんながまねをするようになります。そして,いろんな女性が派手な扮装をして,あちらこちらで踊るようになります。ところが,女性が男装して踊るというのは,現代であればエキセントリックな魅力があるなどと評価されそうですが,当時の風紀にはなじまなかったのでしょう。幕府は女性の踊りを禁止してしまいます。すると今度は美少年を集めて踊らせることが流行し始めます。しかしながら,これも幕府によって禁止されてしまいます。この頃は,男色が非常に流行した時でもあり,このようなことにも幕府は神経をとがらせていたからです。庶民はこれらの御触れにもかまわず,隠れて美少年達の踊りを楽しむことをやめませんでした。そこで幕府は,全ての劇場を閉鎖するという強行手段に打って出ます。このようなわけで,能に親しみにくくなった庶民にとっての新しい娯楽が取り上げられてしまい,庶民達は再び寂しい思いをすることになるのです。このような庶民達から,何とか劇場を再開してほしいという懇願を受けて,幕府が劇場再開を許したのは1650年頃のことです。この頃から,踊り中心であった芸能は次第にドラマ化され,いわゆる劇へと移り変わり始めます。そして,今日の「歌舞伎」へと受け継がれて行くのです。

(京都コンピュータ学院京都駅前校舎竣工記念フェスティバル記念講演より抄録)

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Yoshikazu Gondo
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上記の肩書・経歴等はアキューム4号発刊当時のものです。