桜が満開になる季節,京都市左京区の高野橋西詰めにある大きな桜の木を見るたびに,あの日のことを思い出す。
私が京都コンピュータ学院の職員になって2,3年目の頃,高野橋を渡っていると,満開の桜の木の下で写真撮影をする一行を見かけた。高野橋付近は景色のいい場所ではあるが,観光地とは言い難く,近くにはショッピングセンターもある住宅街である。「こんな所でも写真撮影をする人達がいるのか」などと思いながら近付いていくと,なんとその一行は故長谷川繁雄学院長と長谷川靖子副学院長(現・学院長),故岩崎直子理事らではないか。まだまだ下っ端の職員だった私にとって,この方々は雲の上の存在である。なぜか挨拶をするのも気恥ずかしく,引き返そうか,どうしようかと一瞬うろたえていると,岩崎先生にあっけなく見つかってしまった。か細い声で「こんにちは」と挨拶をすると,学院長から「末広さんも一緒に写りなさい」と言われ一行の中に引きずり込まれた。「こんな人通りの多い所で写真撮影なんて…」と思いながら,一行の端で恥ずかしそうに写った。(あの写真は,今どこにあるのだろう。)
学院長は自ら写真を撮ることがお好きで,1973年から1988年までの学院の学校案内パンフレットの表紙を飾った,『希望が丘の芝生に座る学院生』の写真も学院長が撮られたものだ。たいへん自然に親しむこともお好きで,学院生の春のハイキングは滋賀県の希望が丘へ,秋のハイキングは比叡山へ登るという伝統をつくられたのも,学院長である。首からカメラを吊るし,希望が丘の芝生の上を裸足で歩かれる学院長の姿が懐かしく想い出される。
秋のハイキングや職員の研修旅行も登山で,まず自分では進んで行くことのない山へ登り,いい体験をさせていただいた。学生時代も,職員になってからも,持久力のなかった私は,山登りが嫌で嫌で仕方がなかった。登っている途中は,息もできないほど苦しくなり,随分と学院長を恨んだものだ。しかし,何度も同じ比叡山への山道を歩くうちに,「これが体力のパラメータになっているのでは?」と気づいた。普段から運動をしていると,比較的楽に登れる。さぼっていると,苦しい思いをする。この登山により,持続力の大切さを知ることができたのは,最近になってからだ。また,日常生活の中で辛いことかあっても,「あの登山の苦しさに比べたら,これ位のことは!」と頑張ることもできた。今年も比叡山に登りながら,「この山道を3万人の学院卒業生が,『しんどい! 誰がこんなこと決めたんや!』などとぼやきながら登ったのか」と思うと,おかしくなってきた。
入学式や卒業式,新機種が入ったときの入学説明会など,大きな行事があるとき,学院長は前日に必ずリハーサルを行った。客席と想定した椅子に担当以外の職員を座らせ,学院長はその横に腕組みをしたまま,じっと立って聞いておられる。気になる点があれば,まるで映画監督さながらにパンパンと手を叩き,「そこ! そこはこんな風にやらなあかん」などとアドバイスをされた。私は今年初めて入学式の司会をさせていただいたが,学院長が生きておられたら,どんなアドバイスをいただけたことだろう。
私が学院に入学したときの入学式は,新入生代表に女子学生が選ばれ,宣誓を行った。男尊女卑の激しい鹿児島の地で生まれ育った私にとって,女性がこういう大きな学校行事の代表に選ばれたということは,センセーショナルな出来事であった。鹿児島では生徒会から学級委員,はては小さな係に至るまで,長と名がつけば男子,女子はよくても副という暗黙の了解があった。どれほど優秀な者であっても女子が長に就くことはできず,それをおかしいと言う者すらいなかった。
新入生代表の宣誓が行われる中,私は,男女差別のないすばらしい学校でこれから勉強ができるのだと,期待に胸を膨らませた。
学生時代は直接学院長とお話しする機会はなかったが,職員になり,会議で話されることや職員との会話の中から,あらゆる差別に対して細かな注意をされていた。学院長は,「『差別』と『区別』は違う」とよくおっしゃった。今でもその違いはよくわからないが,人は,人に対して行うのが「区別」,自分が受けるものは「差別」と思うのかもしれない。
学院長は様々なことによく気がつく方でもあった。あまりに配慮深い指示をされるため,私たち職員は事情がわからず,度々混乱に陥った。
半面,ワープロ入力用の原稿などは,太い青色のインクの万年筆で,お世辞にも綺麗とは言い難い字ではあったが,丁寧に一画一画を几帳面に書かれていた。校正されるときも,読み易い字で,校正記号など全く知らない私にも充分理解できるように書かれていた。何度となく,学院長の校正紙を見ているうちに,自然と校正の仕方を覚えていったように思う。特別に校正の勉強をしたこともなかったが,学院長の校正紙から身についたことは数知れない。
ある日,学院長が広告原稿を徹夜で書かれているときに,「末広さん,文章を作るというのは本当に難しいことやなあ。何度も何度も読み直して,何回も何回も修正して,やっと1つの文章が出き上がっていくんやで」と教え聞かすようにおっしゃった。それまでは,原稿を何回直しても,まだ直しが入り,その度に『一回で直せばいいのに』とか,『さっき直した所をまた元に戻すのか』,『いつになったら終わるのかな』などと無責任に思っていた。しかし,人の作った文章を校正したり,いざ自分で文章を作ったりしてみると,その難しさに驚いてしまう。ましてや,広告の原稿ともなると,色々な人が読むため,あらゆる視点から考え,なおかつ分かり易く書かなくてはならないのだから,大変苦労されたことだろう。(今頃になって,失礼なことを考えたなと反省している。)
私は本や新聞など活字を読むのが大嫌いで,当然のことながら語彙にも乏しく,こういう長い文章を書くことなど,できるわけがないと思っていた。しかし,こんな文章でも実際に書いてみると,学院長の作られた文章をワープロに入力したり,何度も修正される過程が基礎となり,僅かではあるが文章力が培われたのかもしれない。
学院長は以前,中学校の教諭や大学受験のための塾経営をされていたが,詰め込みの受験勉強や偏差値重視の教育を嫌われ,この京都コンピュータ学院を創立されたと聞き及んでいる。このように『自分でも知らないうちに力がついていく』,これこそ真の教育ではないだろうか。今は社会の第一線で活躍されておられる学院長の教え子から,「学院長は本物の教育者だ」とよく聞く。直接学院長の授業を受けることができなかったのは,残念である。
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亡くなる半年程前,会議で話される学院長の目がとび色になっているのに気づいた。随分お疲れの様子で,「体調を崩されたのかな」と思っていた。
1986年度の入学式の後,急きょ入院されたと聞いた。「病気とは無縁の方だ」と思っていたが,1ヵ月ほどして,2週間で体重が十数キロ減り,熱が下がらないと聞いた。
「もしや,癌では?」と思った。
数日後,私は夢を見た。
―私は百万遍校舎の事務所にいる。電話が鳴り,「京都コンピュータ学院です」と応えると,電話の主は学院長で,「末広さんですか,私はとても元気ですよ」と,とても優しくやわらかい声でおっしゃった。(私は現実に,学院長のあんなに温かくおだやかな声を聞いたことがなかった。)―
7月3日の朝,学院に一本の電話が入った。職員の土屋さんが電話をとると,「長谷川繁雄さんの知り合いです。夕べ亡くなられたと聞いたのですが,本当ですか?」という。土屋さんは『なんという失礼な電話だろう。こんないたずら電話を掛けるなんて!』と憤り,「そんなことはありません!」と応え,受話器を下ろしてから心配になり,私の所へやって来た。私も最初は悪質ないたずら電話だと思ったのだが,急にあの夢のことを思い出し,事務局長に確認の電話をかけた。問合せの電話はいたずらではなかった。
なぜか,学院長から怒られていたことばかりを思い出し,込み上げるものを抑え切れなかった。いつも学院長から「土屋さんと末広さんは2人で一人前」と言われていた。その相棒の土屋さんとその場にへ夕へ夕と座り込んでしまった。
密葬や学院葬が行われても,まだ学院長がこの世に存在されないことを信じられなかった。百万遍校舎の,誰もいない部屋で人影を見て,中に入ると学院長の肖像画があり,心臓が飛び出るほど驚いたこともあった。学院長が夢の中に現れ,「学校を良くしていってくれ」と言われたこともあった。しかし,私たち職員が,迷ったり,誤ったことをしていると,「皆,何をしているんですか!」と,叱咤激励をしに出て来られるに違いないと思っていた。いや,期待していたのかもしれない。
しかし,一周忌法要を迎えても,学院長は現れなかった。遂に,私の学院長への依存心は断ち切れた。
学院長が亡くなられてから早8年が過ぎた。学院長のエピソードは今でも語り継がれている。自分に厳しく,人には厳しさの中にも温かみのある人情の厚い方だった。ただ,人と接するのが少し不器用で,随分誤解を受けたこともあっただろう。「志半ばにして亡くなる」という言葉はよく聞くが,学院長の場合は理想がどんどんと高くなり,志が達成することは永久になかったのではないかと思う。常に理想を高く掲げ,それに向かってばく進するエネルギーを持ち合わせた方だった。
この「初代学院長の思い出」を書きながら,今の状態に満足してはいないものの,精いっぱい努力したのだから,結果が多少悪くても仕方がないと,いつしか諦めている自分に気がついた。これからは,『反骨の精神』はもちろんのこと,学院長がよくおっしゃった,『やればできるという精神』を後進にも伝えていきたい。