コンピュータの歴史的遺産の保存について
我が国におけるコンピュータ発達の歴史は60年以上昔にまでさかのぼることができる。この間にパラメトロンの発明や商用コンピュータのトランジスタ化での先行,そして近年ではスーパーコンピュータの「地球シミュレータ」や「京」,「富岳」などコンピュータの発展に数々の貢献をなしとげ,世界に誇れる技術的成果が多数ある。
このような歴史を記録すべく,情報処理学会のホームページ上にはバーチャルなコンピュータ博物館があり,我が国の過去の研究成果や重要な製品などコンピュータ関係の写真や記事を掲載している〈http://museum.ipsj.or.jp/〉。その史料点数は2000点,アクセスは月に10万件に達する。しかし,残念ながらここに掲載されている史料のほとんどは現存しておらず,かろうじて残存しているものも日に日に失われているのが実情で,実物を見たいという要望に応えられないし,写真を見ただけでは実物に接したときのような感激はわかない。
そのためコンピュータに特化した実博物館の必要性を痛感し,情報処理学会としての提言や各方面へのはたらきかけなどを行ってきたがいまだ実現の見通しは立っていない。
一方,欧米は自国の技術遺産の保存に熱心に取り組んでおり,コンピュータに特化した立派な博物館もできている。たとえば米国シリコンバレーにある大規模なコンピュータ歴史博物館〈https://computerhistory.org/〉ではENIAC以来のコンピュータ発展の歴史的遺産をスーパーコンピュータからパーソナルコンピュータまで系統的に展示しており,中には日本の古い貴重なコンピュータまである。また,単に保存,展示するだけでなく,若い世代のコンピュータ教育へ積極的に活用している。
こうした状況を見るにつけ,我が国にもコンピュータの実博物館が欲しいという想いは強くなるばかりであるが,博物館というと「懐古趣味」「ハコモノ」という認識の人が多くて博物館の必要性をなかなか理解してもらえない。
しかしながら,博物館には次のような効用があると考える。
●実物を見ることでそれぞれの時代で技術課題に挑戦した先人の創意工夫を知ることができ,研究者,技術者の抱える問題の解決に新しい視点を与えることができる。いわゆる温故知新である。
●現在のコンピュータは微細化されてその動作の様子などが見えないが,昔のコンピュータは構造・機能がシンプルでサイズも大きく動作原理がよくわかるので教育史料として有用である。その原理に興味を持ち理解を深めることでコンピュータが子供たちの興味の対象になり,理科離れ解消にも役立つのではなかろうか。コンピュータは今や社会の基盤であり,その発展の歴史と動作原理・技術などを若い世代に正しく理解させるための総合的な教育の場として博物館は効果的だと考える。
●それぞれの時代での技術レベルを超えるための工夫やこだわりが理解でき,我が国のモノ造り大国としての歴史を実感できる。これは我が国製造業の復活へのひとつの原動力となろう。
●コンピュータの黎明期に商用コンピュータを開発,ビジネス化できたのは欧米と日本だけであり,その輝かしい歴史を次の世代の研究者,技術者の自信へとつなげられよう。
情報処理学会では,このままでは将来に禍根を残すと考えて,何かできることはないか検討した結果,「情報処理技術遺産」と「分散コンピュータ博物館」の認定制を始めた。
情報処理技術遺産は,重要な技術革新あるいは社会・文化活動に重大な影響をもたらしたコンピュータとその関連史料を認定の対象にしている。
〈http://museum.ipsj.or.jp/heritage/index.html〉
また,規模は小さいながら貴重な史料の保存・展示に努力をしていただいている施設を分散コンピュータ博物館として認定している。
〈http://museum.ipsj.or.jp/satellite/index.html〉
これらによって史料保存に努力している方々へ敬意を表し,技術遺産保存への世の中一般の関心も高めたいと考えている。
KCG資料館(写真1)は分散コンピュータ博物館の代表的な施設で,日本のコンピュータの歴史を語るうえで欠かすことのできない多数の貴重な史料が保存・展示されており,その中には情報処理技術遺産に認定された史料が7件もある。本稿では我が国のコンピュータの初期から発展期を中心に1980年代頃までの歴史を概観しながら,KCG資料館に保存・展示されている情報処理技術遺産も紹介したい。
1946年に米国のペンシルベニア大学で弾道計算を主目的として真空管1万8千本を使用した世界最初のコンピュータENIACが開発された。日本では大阪大学真空管計算機(1950年代),富士写真フイルムのFUJIC(1956年),東京大学のTAC(1959年),電気試験所ETL RTCなどが真空管を使って開発されたが日本独自のパラメトロンが発明されたこともあって真空管コンピュータの研究開発および実用は限られており商用機では真空管は採用されなかった。
パラメトロン素子は後藤英一が1954年に発明した多数決論理演算素子で受動素子のみから構成され,安価で安定な論理回路を作れた。当時真空管の寿命が短く,トランジスタはまだ非常に高価で安定性も低かったのでパラメトロンに期待が寄せられた。これを使って東京大学でPC-1が開発され1958年に稼働した。旧電電公社の電気通信研究所ではパラメトロン5400個を使用し32語の記憶装置を持つプログラム制御方式のコンピュータ MUSASINO-1 を1957年,それを改良したMUSASINO-1Bを1960年に開発した。
東北大学電気通信研究所とNECは共同でパラメトロン1万個を使用した大型計算機 SENAC(NEAC-1102)の開発を1956 年にスタートし1958年に設置・公開した。
企業では日立がHITAC MK-1(1957年),NECがNEAC-1101(1958年),富士通がFACOM201(1960年)を開発したのをはじめ,各社が商用パラメトロン計算機を開発・販売した。しかしながらパラメトロンは信頼性は優れていたが速度,消費電力でトランジスタに比べ不利で,トランジスタの信頼性向上によりトランジスタに置き換えられ,1960年代前半でパラメトロン計算機の開発は終わった。
これらと並行して電気試験所のETL MarkⅡ(1955年),カシオ計算機の14-B(1959年),富士通のFACOM128B(1959年),FACOM138A(1960年)などのリレー式計算機も開発された。
1954年に電気試験所に創設された電子部がコンピュータの研究を開始し,最初にETL MarkⅢを開発した。これは1956年7月にプログラムが動作し,トランジスタコンピュータとしては我が国で最初,世界で3番目(プログラム記憶方式のトランジスタコンピュータでは世界最初)と言われている。大学では,慶応大学のK-1(1959年),京都大学のKDC-1(1960年)などが開発された。
電気試験所の指導を受けて商用のトランジスタコンピュータが各社で開発された。NECは NEAC 2201を1958年9月に完成し,1959年6月にパリで開催されたAutomath展示会に出品,トランジスタコンピュータとしては世界で初めて公式な展示実演に成功した。他国からもトランジスタコンピュータの出品はあったが実際に動作したのはNEAC 2201だけであったと報告されている。NECはこれに続いて本格的な事務処理を目的にNEAC-2203(1961年)を開発し,続いて大型計算機NEAC-2206(1962年)(写真2)を発表した。同機は高速の磁気テープ装置,カード入力装置,高速製表装置を使用して,大量のデータ処理を短時間に行うことをねらって開発され,NEAC-2203の割り込み機能を発展させた多重プログラミング,リアルタイムの処理機能を充実した。また,コアメモリを内部記憶と入出力の制御に使用して高性能化している。大阪大学学内計算センターで1963年から使用されたNEAC-2206が2009年8月に大阪大学から京都コンピュータ学院に寄贈され,現在同学院KCG資料館に計算機本体,さん孔タイプライタ,磁気テープ制御装置,磁気テープ装置,高速テープさん孔機が保存・展示されている。この時代の技術を知ることのできる貴重な史料である。
日立は1960年からHITAC 5020の開発を開始し1965年4月に1号機を京都大学に納入した。富士通は最大1万語の磁心記憶を持つFACOM-222A (1961年),小型汎用機FACOM 231(1963年)を開発した。三菱電機は高速演算の付加装置を持つMELCOM 1101(1963年),沖電気はコアメモリを全面的に採用したOKITAC5090(1961年)を開発した。また京都大学と東京芝浦電気(現 東芝)は共同で,我が国初めてのマイクロプログラム制御を採用したKT-Pilotを開発し,これをもとに東芝は科学技術計算用のTOSBAC-3400(1972年)(写真3)を開発した。同機はKT-Pilotで実用性が確認されたマイクロプログラム方式を採用し,開発過程でアーキテクチャを調整するなどのマイクロプログラム方式のメリットを活かした。エピタキシャルトランジスタの採用によって2〜3桁高速化し,同時に論理素子数を減らすことによって低価格化を図っている。京都コンピュータ学院では1972年にTOSBAC-3400を導入したが,その当時の中央処理装置,磁気テープ装置,磁気ディスク装置,紙テープリーダ,カードリーダ,ラインプリンタ,X-YプロッタよりなるシステムがKCG資料館に保存・展示されている。
コンピュータの発達は真空管やリレーを使った時代を第一世代,トランジスタの時代を第二世代,集積回路の時代を第三世代と呼んでいる。第三世代は1964年にIBM社が発表したシステム/360から始まった。システム/360は混成集積回路を採用して小型化し,またマイクロプログラム方式で小型から大型まで同一アーキテクチャを実現して同じソフトウェアを利用できるようになった。機能的にも事務計算,科学技術計算など全方位(360度)をカバーする汎用のコンピュータとなり,メインフレームコンピュータとも呼ばれた。このシステム/360の代表的な機種であるモデル40(写真4)がKCG資料館に保存・展示されている。システム/360で使われた混成集積回路には京セラが貢献しており,そのあたりの事情がKCG資料館で解説されていて興味深い。
IBMに対抗するために,1964年11月に富士通,沖電気,NECが通産省補助金により共同で大型コンピュータFONTACを開発した。このような独自技術の研究,開発と並行して各社は米国のコンピュータメーカとの技術提携を進めた。NECはハネウェルと提携してNEACシリーズ2200を,日立はRCAと提携してHITAC 8000シリーズを発表した。富士通は提携せず,FONTACの成果を利用したFACOM 230シリーズを発表した。東芝はGEと提携してTOSBAC-5600シリーズ,三菱電機はTRW社との提携によるMELCOM 3100シリーズとSDS社との提携によるMELCOM 7000シリーズを発表した。沖電気工業は中小型のOKIMINITACシリーズの開発とスペリーランドとの合併会社沖ユニバックによるユニバック機の国産化を行った。
技術提携しながらもたとえばその上位モデルを国産技術で開発するなどの努力がなされ,NECは我が国で最初に全面IC(集積回路)化したNEACシリーズ2200モデル500(1966年),日立はマイクロプログラム制御の大型機HITAC 8500をそれぞれ独自に開発している。富士通は全面的にTTL ICを採用したFACOM 230-60を1968年に完成し,京都大学に納入した。
電電公社(現在のNTT)は,データ通信サービスを実現するための標準的なコンピュータとしてDIPS(Dendenkosha Information Processing System)開発プロジェクトを1967年に立ち上げた。実験的なシステムDIPS-0から始まり,1969年にNEC,日立,富士通と共同で大型高性能コンピュータシステムDIPS-1の開発を開始した。
1970年にIBM社から発表されたシステム/370はLSI(大規模集積回路)を採用し第3.5世代と呼ばれるようになった。メモリには磁気コアに代わって集積回路が用いられ,仮想記憶方式が一般化した。この時期は GEやRCAがコンピュータ事業から撤退するなど業界の変化も激しかった。システム/370の代表的機種であるモデルIBM 370/138(写真5)とIBM 370/158(写真6)がKCG資料館に保存・展示されている。
当時は米国との格差が大きかったので政府は国産コンピュータメーカを保護してきたが,1971年4月に自由化の方針を決定し,1975年12月までに自由化することになった。その対策として通産省は新製品系列開発補助金制度を創設し,それに対応してコンピュータメーカは富士通・日立,NEC・東芝,三菱電機・沖電気の3グループにまとまりそれぞれMシリーズ,ACOSシリーズ,COSMOシリーズを開発した。
1970年代になると米国ではIBM機とソフトウェアの互換性を有しながら価格性能比に優れたコンピュータが登場しPlug-Compatible Machine(PCM)と呼ばれた。我が国のメーカも1970年代後半からPCMの輸出に力を入れてこれを大きな事業に育て,日本のコンピュータの輸出入バランスは黒字になった。
1980年代になるとNECがACOSシステム1000や1500,日立は強化したM-200シリーズやM-684H,富士通はFACOM M-380,M-382,M-780などを開発し我が国のメインフレームは世界のトップクラスになった。しかしながら,その後はパソコンやUNIXコンピュータの急速な発展によりダウンサイジングが進み,メインフレーム市場は縮小してしまった。
オフィスコンピュータ(以下オフコン)は日本で独自に発展した事務処理用の超小型コンピュータで,1970〜80年代の高度成長期に中堅・中小企業の生産性向上を支えた。
1961年にカシオ計算機からTUCコンピュライター,NECからパラメトロン計算機NEAC-1201,ユーザック(当時ウノケ電子工業)からUSAC-3010が発表されオフコンの歴史が始まった。
KCG資料館に保存されているTOSBAC-1100D(写真7)は,東芝が開発した初期のオフィスコンピュータTOSBAC-1100シリーズのモデルのひとつである。最初のモデルは1963年6月に発表され,TOSBAC-1100Dはその翌年に発表された。
紙テープにせん孔されたプログラムを一命令ずつ読み込んで実行する外部プログラム方式を採用し,その主要素子にはトランジスタや磁気コアを用いている。機器構成は,タイプライタ,プロセッサ,プログラムリーダ(紙テープ読取装置),データパンチ(紙テープさん孔装置),データリーダ(紙テープ/エッジカード読取装置)である。
1973年8月,NECは超小型コンピュータNEACシステム100(写真8)を発売した。同機は,伝票発行から一括データ処理,マルチ・ワークまで多様なユーザの業務に適するシステムを提供した。また,通信制御機能を備えておりターミナル・コンピュータとしても利用できた。
演算素子および記憶素子にLSIを用い,性能,信頼性ともに大幅に向上した。さらに,全面的にマイクロプログラム方式を採用して装置の小型化とシステムの経済性を実現している。
このシステム一式がKCG資料館に保存されており当時の技術を知る貴重な史料となっている。
オフコンは新技術の出現・普及により小型化・低価格化・高性能化が進み,1980年代後半には小型汎用コンピュータに匹敵するレベルまで高性能化したが,90年代になると高性能・低価格化したパソコンやUNIXシステムなどのオープンシステムがオフコンの市場を奪った。
MITリンカーン研究所の研究者であったケネス・オルセンが1957年に設立したDigital Equipment Corporation(DEC社)が1965年に発表したPDP-8(写真9)は非常に好評で,産業制御,通信制御,科学技術計算などの分野に利用され約5万台生産された。本機が商業的に大成功することで,ミニコンピュータのカテゴリーが確立し,またDEC社はその代表メーカとなった。KCG資料館にはこのシステム一式が保存されている。
我が国では日立が1969年2月にHITAC 10を495万円で発売し,続いて富士通はFACOM R,NECはNEAC M4,沖電気工業はOKITAC-4300(写真10 )を発表した。OKITAC-4300は全面的にIC化され,ステレオアンプ並みの筺体に中央処理装置と磁気コア記憶装置を収容し,記憶装置は32キロ語まで増設可能であった。演算速度は毎秒26万回で当時の中型コンピュータ並みの高速性を有しながら磁気コア4キロ語を含む価格が360万円であったことから,1万ドルコンピュータ(当時の為替レート:1ドル=360円)と言われ,そのコストパフォーマンスの高さが好評だった。京都コンピュータ学院では1979年に同システムを導入したが,当時の中央処理装置,磁気テープ装置,磁気ディスク装置,紙テープリーダ,高速紙テープリーダ,ラインプリンタよりなるOKITAC-4300C型のフルシステムがKCG資料館に保存・展示されている。
米国ではミニコンをビジネス用途にも使ったが,前述のように日本ではオフコンがこの分野をカバーした。その後も各社から高性能なミニコンが発売されたがマイクロプロセッサの高性能化,低価格化が進んで,ミニコンのCPUにも汎用のマイクロプロセッサが使われるようになりミニコンの存在意義が無くなった。
世界最初のマイクロプロセッサ4004が1971年12月にインテル社から発表された。その開発に我が国の嶋正利氏の貢献があったのは有名な話である。インテル社はその後1972年に8ビットマイクロプロセッサ8008,1974年にその上位の8080を発表した。高性能になったマイクロプロセッサを使い,種々の周辺機器を組み込めるようにしたパソコンが登場して急速な発展が始まった。アップルコンピュータ社は1977年6月にAppleⅡを出荷し,パソコン市場を創造していった。
我が国では1974年にソード(現東芝パソコンシステム)がインテル8080を採用したマイクロコンピュータSMP80/Xシリーズを発表したのが最初である。1976年8月にNECは技術者のトレーニング用に8080互換のμPD8080Aを用いたワンボードマイコンTK-80を発売し,価格が88500円と安かったため一般マニアにまで人気が出てマイコンブームの先駆けとなった。
1978年9月には日立がBASICを搭載したパソコン,ベーシックマスターMB-6880を発売し,1978年12月にはシャープが技術者トレーニング用のセミキットとしてBASICの使えるMZ-80K(写真11 )を製品化した。MZ-80Kは本体,ディスプレイ,キーボード,テープレコーダを一体化した構造でCPUはZ80,RAMは20KB,ディスプレイは10型CRTであった。BASICインタプリタをROMでなくカセットテープからRAMに記憶させる方式を採用し,自社のみならずサードパーティから提供されるOSや言語も利用可能とした。プログラムにより時刻表示や3オクターブの音を出すことも可能で人気を博し,後継機とともにMZシリーズを形成した。この貴重なパソコンがKCG資料館に保存・展示されている。
NECは1979年に8ビットPC-8001,1982年に16ビットのPC-9801(写真12 )を発売した 。 PC-9801は漢字ROMの内蔵,フロッピーディスクドライブやハードディスクドライブの搭載などの特徴を有しその後のパソコンの国内市場を独占した。
1981年にIBM社もパソコン市場に参入し,インテルの16ビットマイクロプロセッサ8088を用いたIBM PC,同年8月には80286を用いたIBM PC-ATを発表した。PC-ATではインタフェース情報を開示したのでこれがその後のパソコンの実質的な世界標準機となり,ほとんどのメーカがPC-AT互換機を発売した結果,PC-9801の独占も崩れた。
16ビット機時代になってパソコンが事務用に使用されるようになり,1983〜1984年にはシャープのMZ-5500,沖電気のif 800 model 50などが発売された。
1987年頃からは32ビット機が登場し,NECのPC-98XL2,CD-ROMドライブを世界で初めて搭載しAV機能を強化したFM Townsなどが発表された。
1985年3月にドイツのハノーバーで開催されたハノーバーメッセで,東芝は世界初の持ち運び可能なラップトップパソコンT-1100を展示し,4月より発売した。さらに1989年6月には世界初のA4ファイルサイズのノート型パソコンDynaBook J-3100SSを発表した。ノート型パソコンはさらに小型化,軽量化が進み,現在ではパソコンの主流となっている。
我が国のパソコンでは漢字を含む日本語処理に専用のROMを搭載していたが,マイクロプロセッサの性能向上でソフトウェアでの変換が可能になった。1990年12月に発売されたIBM DOSバージョンJ4.0Vはソフトウェアでの日本語処理を実現しDOS/Vと呼ばれた。これはマイクロソフト社からもMS-DOS-5.0/Vとして販売されたので各社のPC-AT互換機で利用可能となりDOS/Vが主流になった。
マイクロソフト社が1995年にリリースしたWindows 95は本格的なマルチメディア機能やネットワーク機能を実現しWindows版のアプリケーションソフトが多数提供されるようになり,Windowsが実質的な世界標準になった。
その後のコンピュータやネットワーク技術,情報産業や情報化社会の発展は驚異的であるが,世界的に見れば我が国は最先端を進んでいるとは言いがたく米国や中国の後塵を拝している。それにはいろいろな事情,原因があると思うがいずれにしても残念な状況である。本稿で述べてきたように我が国には先人達の築いた素晴らしい歴史があり,ぜひ次の世代の方々には頑張っていただきたいと思う。その歴史を伝えてゆくためにも歴史的遺産の保存,活用に情報処理学会として更に努力してゆく所存である。引き続き関係各位のご理解,ご協力をお願いしたい。