映画『伊豆の踊子』の系譜(1933-1974)と映画『野菊の墓』(1981)
川端康成の小説『伊豆の踊子』は,日本映画史上,「少女スターの登竜門」1,「新人女優の登竜門」2,あるいは,踊子役が「その時代の清純スターの,出世役」3として,1933年以降,これまでに6回にわたって映画化されている。最終作品は,1970年代後半を代表したアイドル歌手の山口百恵が出演した1974年の作品で,それから45年以上新作がないので,その「登竜門」としての役割は事実上終えたと言えるのだが,興味深いのは,1981年に松田聖子の初主演作『野菊の墓』が制作されていることである。
この『野菊の墓』は,松田聖子が山口百恵の引退後のトップアイドル歌手だったこと,『伊豆の踊子』と同種のテーマで文芸映画のリメイクであったこと,彼女を女優としても売り出す企画だったことを考慮すると,松田聖子にとって「新人女優の登竜門」の役割を果たしており,その意味で,制作されなかった7度目の『伊豆の踊子』に相当すると考えられる。
そこで本稿では,映画『野菊の墓』を,映画『伊豆の踊子』の系譜の延長上に置いて考察してみたい。すなわち,仮に松田聖子の『伊豆の踊子』第7回作品が実現していた場合,どのような踊子の演技が要求され,彼女がそれに応えられていたかどうか,言いかえると,彼女が「新人女優の登竜門」を首尾よく通過できたかどうかを,『野菊の墓』における演技を参照しながら考えてみたい。
川端康成が1926(大正15/昭和元)年に『文藝時代』に発表した『伊豆の踊子』は,『雪国』や『古都』と並ぶ,川端の代表作である。川端本人の旅行体験を基にしており,伊豆に一人旅に出た一高生が,旅芸人の一座と道連れになり,修善寺から湯ヶ島,天城峠を共に越えていくなかで,踊子の「薫」と親しくなって,お互いに淡い恋心が芽生えるものの,一高生は下田から船で帰京することを決意し,二人は別れるという粗筋である。二人が結ばれない真の理由は,一高生という当時のエリート階級と旅芸人という賤業の間の社会的身分の差である(旧制第一高等学校は戦後に東京大学教養学部に改組)。この封建的偏見のために成就しない若い男女の愛という主題は,後に検討する『野菊の墓』とも共通する。
この『伊豆の踊子』が先述のように,「新人女優の登竜門」として6回にわたって映画化されてきた。第1回作品は,五所平之助が1933年に田中絹代主演で撮ったサイレント映画『恋の花咲く 伊豆の踊子』である4。田中絹代は早くも14歳で『村の牧場』(1924年,清水宏監督)で主役を演じるなど,その可憐な容姿と演技で人気を獲得,トーキー時代に入ると持ち前の甘い声も受けて,「押しも押されもせぬ松竹のドル箱女優」に出世した後,『伊豆の踊子』に主演した5。23歳の田中絹代が演じた数え年14歳の踊子は6,手を口元に添える特有のかわいいしぐさで,一高生への想いを無邪気に表現している。田中絹代は晩年に『伊豆の踊子』出演を振り返って,「五所平之助先生のていねいな仕事ぶりにおつきあいするうちに,大げさにいえば私自身の映画観,あるいは芸というものに対する考え方が,ずいぶんと変わっていったように思うのです」と発言している7。
第2回は,野村芳太郎が1954年に美空ひばり主演で撮った作品である。9歳で歌手として舞台に立った美空ひばりは,12歳で主演した映画『悲しき口笛』(1949年,家城巳代治監督)が,主題歌と共に大ヒットし,以後は歌謡と映画の二つの世界で活躍し続け,弱冠14歳にして「日本を代表するトップ歌手の座」に就き8,喜劇界の帝王・古川ロッパをして,「美空ひばり,こんな人気のある者は,一体今迄の日本に在ったらうか」9と言わしめるほどの大スターになった。美空ひばりは40本以上の映画に出演後,『伊豆の踊子』に主演したのだが,踊子役は,それまでの子役(少年役もあった)から脱して,「年相応の娘らしさ」を見せる女優へと成長するきっかけになった点で,彼女の映画歴ではひとつの転換点だったと評価されている10。
『伊豆の踊子』第4・6回作品を監督した西河克己は,美空ひばりの作品において,『伊豆の踊子』が「まだ女になりきらない少女役の新人女優を大きく売り出すのに恰好のタイトル」と捉えられ,「この発想は,『伊豆の踊子』のひとつの定型として,それ以後,継承されてゆくことになるのである」と指摘している11。当時の新聞でも,「ほのかな恋心」を表現できた美空ひばりの演技を,「年齢的に一ばんやりにくい年ごろの彼女としては,一応は及第点の出来だといってもよかろう」と評されており,西河の指摘を裏付けている12。
第3回は,川頭義郎が1960年に鰐淵晴子主演で撮った作品である。日本人の父とドイツ人の母を持つ鰐淵晴子は,「原節子の再来」と言われたほどの「オーソドックス」な美貌の持ち主で(原節子も「混血」の噂が絶えない西洋風の女優だった),『手さぐりの青春』(1959年,川頭義郎監督)や『わかれ』(1959年,野崎正郎監督)のヒロイン役で注目を浴び13,西河克己の言葉を借りれば,「その人気をさらに上昇気流に乗せるという意図」14から『伊豆の踊子』に主演,目鼻立ちの整った端正な容姿で,あまり影を感じさせない踊子を演じた。新聞の劇評では,原作を「現代風」に演出した「清潔な青春もの」で,彼女の顔が「あまりに都会的で素朴な味がない」とも書かれている15。
第4回は,西河克己が1963年に吉永小百合主演で撮った作品である。13歳で銀幕デビューした吉永小百合は,日活アクション映画の少女役の常連となる一方,石坂洋次郎の小説を原作とする一連の「青春映画」のヒロイン役を演じ,その「庶民性と純情さ」が支持されて人気が急上昇,この「青春映画路線」は『キューポラのある街』(1962年,浦山桐郎監督)でひとつの頂点を迎えており,翌年の『伊豆の踊子』出演であった16。吉永は彼女らしいはつらつとした動作で,一高生への想いを健やかに表現している。彼女の俳優歴では,『伊豆の踊子』は特別に重要な位置を占める作品とは言い難いものの,踊子の純情や淡い恋心の表現には「適役」だと当時評されたほか17,川端の原作に特別な思い入れを持っていた吉永にとっては,思い出深い作品になったようである18。
第5回は,恩地日出夫が1967年に内藤洋子主演で撮った作品である。内藤洋子は高校在学中に,黒澤明監督の『赤ひげ』(1965年)で幕府の典医の娘役に抜擢されて映画デビュー,連続テレビドラマ『氷点』で人気が上昇,その後に初主演した青春映画『あこがれ』(1966年,恩地日出夫監督)がヒットした19。『伊豆の踊子』は「その余勢をかって内藤洋子を売り出すための企画」20として,同じ恩地監督で演出され,彼女の持ち味の清純さが好評を博した。後述のように映画でおでこを出すのを嫌った松田聖子とは対照的に,内藤は「可愛いオデコ」姿が人気を呼んだ「アイドルスター」だった21。
第6回は,再び西河克己が1974年に山口百恵主演で撮った作品で,内藤洋子までの女優が映画界のアイドルであったのに対して,テレビのアイドルによる銀幕進出だった。西河は彼女のデビュー作に『伊豆の踊子』を選んだ理由について,人気歌手でも「演技力は未知数」のため,セリフが少なく,受け身の芝居が多い『伊豆の踊子』ならなんとかなると考えたと発言している22。この初主演作で山口百恵は,さわやかな笑顔を見せながらも,全体的に抑え気味の表情やしぐさで,心情を内に秘めた乙女を演じ,共演の三浦友和との相性も良く23,映画は監督の期待以上にヒット24,その後,1980年の引退までに13本の映画に主演,映画女優としても活躍した。引退時の記者会見では,『伊豆の踊子』が自分の出演作品ではいちばん好きと答えている25。
このように『伊豆の踊子』は6回にわたって映画化されてきた。先述のように西河は,美空ひばり作品の成功後,この題材が若手のスター女優向きであることが,映画関係者の間で認知されてきたと指摘しているが,各紙・各誌の批評を参照すると26,「新人女優の登竜門」として枠組みされてくるのは,第5回作品からである。第4回作品までは,それまでの映画化回数は言及されても,「登竜門」などに類する記述はなく,内藤洋子の第5回作品で「若手俳優のスターへの登竜門」27という表現が使われ,山口百恵の第6回作品も「新人女優の登竜門作」28という紹介がなされている。1979年6月の『キネマ旬報』掲載の「図説日本映画風土記⑤伊豆―踊子あるいは処女の主題」では,6人の女優の顔写真が見開きで配置されており29,映画『伊豆の踊子』がすでにひとつの系譜として認められていたことが分かる。
かくして『伊豆の踊子』は,松田聖子のデビュー前に,日本映画史では類例のない「新人女優の登竜門」として系譜化されるに至ったのである。
『伊豆の踊子』の映画化は6回で終わっているが,第7回作品の制作が期待されていたことを示唆する映画の記念碑がある。『伊豆の踊子』で主人公が歩いた天城路は,現在遊歩道が整備され,歩道沿いには小説や映画にまつわるさまざまな碑や銅像が建てられているが,そのひとつに,第1回作品を撮った五所が1979年春に建立した句碑があり30,その裏には,「「薫」の役は新人女優の登竜門となった」という北條誠による一文と31,主演女優の一覧が次のように刻まれている。
この一覧で注目したいのは,山口百恵の次の空欄である。『伊豆の踊子』を英訳したエドワード・G・サイデンステッカーは,「川端作品は,映画製作者には非常に人気があって,特に『伊豆の踊子』など,何度も繰り返し映画化されてきたし,これから先も,まだまだ繰り返されるに違いない」と自伝に書いたが32,その空欄は,彼も期待したように,『伊豆の踊子』の新作が当時,待望されていたことを示している。
この関係者の期待に反して,映画化が6回で止まった理由について,西河克己は踊子を演じられる「公約数的な美少女や人気者」の不在を指摘するのだが33,振り返ると,そのような「人気者」は存在していたように思われる。西河の踊子像に適うかは不明であるものの,松田聖子である。もしも『伊豆の踊子』第7回作品が,1980年の山口百恵の芸能界引退後に企画されていたならば,その主演は,山口百恵後にトップアイドルの座を獲得した松田聖子以外にありえなかったと思われる。
松田聖子は1980年代を代表するアイドル歌手であった。1980年4月に「裸足の季節」でデビュー,2枚目の「青い珊瑚礁」(1980年7月)で人気に火が付き,3枚目の「風は秋色」(1980年10月)でオリコンシングルチャート1位を獲得すると,その後のシングル曲は軒並みヒット,彼女の半生記をまとめた大下英治の表現を借りれば,「火を噴くような勢いでスーパーアイドルになっていった」のである34。1988年の「旅立ちはフリージア」でシングル24枚連続1位の記録を達成し,80年代の歌謡界に大きな足跡を残した35。
音楽評論家の高護はこの急激な人気獲得を,次のように説明している。高によれば,松田聖子は,南沙織の「17才」(1971年)と郷ひろみの「男の子女の子」(1972年)のヒットから始まった「アイドル歌謡」と,サウンドの快適さ・言葉の響き・リズムを,歌詞の物語や意味と同等か,それ以上に重視し,1970年代後半から歌謡曲の主流になってきた「シティ・ポップス」(驚異的なヒットとなった寺尾聰の1981年「ルビーの指環」を,その確立の「決定打」としている)との融合を成功させ,自我の確立した女性としての自己主張を込めた歌詞という「本質的な新しさ」を持ち,男子のみならず,女子中高生からも支持を得ることで,80年代の歌謡界において,単独で「ひとつのシーン」を形成しえたのである36。
トップアイドル歌手の座を獲得すれば,次に来るのは,大勢のファンの来場が見込まれる映画出演の話である。先述のように,松田聖子は『野菊の墓』で映画デビューしたが,仮に別の題材が選ばれていたとしたら,「新人女優の登竜門」としての評価が確立していた『伊豆の踊子』だった可能性が高く,『野菊の墓』を監督した澤井信一郎は,監督依頼の話が来た時,松田聖子主演での『野菊の墓』は既定路線であったものの,その前段階として,『伊豆の踊子』も同時に考慮された結果,映画化回数の少ない『野菊の墓』が選ばれたのではないかという推測を披露している37。『野菊の墓』と『伊豆の踊子』がアイドル女優向けの文芸映画の定番として同様に位置づけられていたことは,『野菊の墓』が山口百恵の主演2作目の候補に挙がっていたというエピソードにもうかがえる38(実際の山口百恵の2作目は,西河克己監督の1975年の『潮騒』になったが,テレビドラマ『野菊の墓』には1977年に主演している)。
また,山口百恵が『伊豆の踊子』で映画デビューして女優として活躍したことも,この題材が,松田聖子に対して持つ意義を高めている。松田聖子は当初,山口百恵のいわば後釜として売り出されたアイドルだったからである。1970年代を代表するアイドル歌手の山口百恵は先述のように,映画女優としても活躍し,『伊豆の踊子』でのデビューから,引退作品の『古都』(1980年,市川崑監督)まで,主演した13本がすべてヒット,演技も高く評価された。そのうち12本で共演した三浦友和とのペアは「ゴールデン・コンビ」と呼ばれ,ゴールデンウィーク・夏休み・年末年始の集客期には,百恵・友和ファンが映画館につめかけた。テレビアイドルの映画進出は1970年代から盛んになるものの,ほとんどのアイドルが数作で打ち止めだったのに,山口百恵一人だけが本格的な女優へと成長し,東宝に安定した興行収入をもたらす看板スターとなった39。
70年代の歌謡・映画界で華々しく活躍した山口百恵が1980年,三浦友和と結婚して引退すると,その空位となったトップアイドルの座に向けて,松田聖子は売り込まれたのだが,そうであれば,歌手だけではなく女優としても,山口百恵同様の活躍が期待されたことは自然の成り行きであった。そのような期待は,「山口百恵引退後,アイドル歌手ナンバー1の座についた松田聖子が,映画の世界でも〝ポスト百恵〟をめざした主演第一作」40という『野菊の墓』の紹介や,「山口百恵のあとがまは松田聖子。すでに来年の夏も彼女主演の文芸ものと決定している」41という,『野菊の墓』公開後の東映関係者の発言に表れていたと言える。
松田聖子の映画デビューが,寺脇研が「すべて山口百恵の『伊豆の踊子』での映画デビューを想起させる」と指摘するほどに42,山口百恵を意識しての文芸映画の路線であったならば,松田聖子も,山口百恵を成功裡に映画界に送り出した『伊豆の踊子』を,初主演作の題材に選んだとしても驚くにはあたらなかったと思われる。その場合,五所の句碑では,「松田聖子」の名前が「山口百恵」の次に刻印されていたことになる。
それでは,松田聖子主演の『伊豆の踊子』が実現していた場合,彼女はどのような演技を見せ,それで「新人女優の登竜門」を通過できたかどうかを考えるために,実際の初主演作『野菊の墓』における演技を見ていきたい。
『野菊の墓』の原作は,伊藤佐千夫が1906年(明治39年)に文芸誌『ホトトギス』に発表した同名の小説で,次のような粗筋である。舞台は明治期の千葉の農村,17歳の「民子」は親戚の豪農の家に手伝いとして入り,そこで15歳の従弟の「政夫」と恋仲になるが,2歳の年齢差と家格差を理由に二人の仲は引き裂かれる。民子は政夫への想いを秘めたまま,軍人の家に強引に嫁がされるが,流産がたたって死んでしまうのであり,農村の因習につぶされる若者の純愛を描いた悲恋物語である。
松田聖子は民子を演じ,映画は原作におおむね忠実に演出されている。制作会社は東映だが,1960年代後半から70年代を任侠・ヤクザ映画や『トラック野郎』シリーズで乗り切ってきた東映としては,当時の岡田茂社長が「東映も,とうとう,ピストルもドスも出てこない映画を製作することになったなあっ」との感想を漏らすほどの異色のアイドル映画になった43。プロデューサーを務めた吉田達は,岡田社長が『野菊の墓』の企画を承認したこの会議を,「ある意味では,東映映画史上,歴史的瞬間かもしれなかった」と回想しているが44,事実,東映は80年代に入ると制作・配給作品を多様化させ,薬師丸ひろ子と原田知世の次世代アイドルの主演した角川映画,『キン肉マン』や『ビー・バップ・ハイスクール』の人気シリーズ,戦争映画や文芸大作などが会社の屋台骨を支えることになる45。
なお,松田聖子の『野菊の墓』は,伊藤の小説の3度目の映画化である。第1作は木下惠介監督の『野菊の如き君なりき』(1955年),第2作は富本壮吉監督の『野菊のごとき君なりき』(1966年)であるが,木下作品は名作との誉れが高く,この小説が若い世代に読み継がれていく「〝青春の書〟」の地位を獲得したのは,この映画の成功のおかげだったと指摘されている46。
さて『野菊の墓』における松田聖子の演技であるが,彼女は演技の達者な芸能人ではない。この映画で松田聖子は,封建的な農村社会の中で,従弟の政夫への愛を心に秘めたまま死んでいく純朴な娘を演じたが,その演技は素人の演技,良く言えば素朴な感じの演技である。喜怒哀楽の表現では,感情が内面から湧いてくるように感じられないことが多く,長い台詞が一本調子に聞こえることも少なくない。
例えば,他家への強制的な嫁入りが決まった民子が,蔵の陰でしゃがんで泣く場面では,悲しみの感情が実感を伴って伝わってこない。むしろ,横でもらい泣きする,ベテラン女優の樹木希林(きききりん)の方が真に迫った演技を見せている。また,民子の乗せられた花嫁行列に政夫がすがってくる場面でも,彼女の内面で渦巻いているはずの複雑な感情が,その表情からはあまり読み取れない。演技の拙さは本人も自覚していたようで,「言われるままに演りましたけど,正直,分からないで演ってたところもあったんです」,「私って,演ずるのはダメだなって思ったんです。セリフはナマリがあったし,演技はできないし· · · · · ·」と後に振り返っている47。
その一方,身体を大きく使った演技では,大人の女に成りきれていない民子の無邪気がうまく表現されている。例えば,民子が廊下を拭きながら,障子の向こうで寝ている政夫を起こそうとする場面である。四つん這いで進みながら廊下を拭く民子が,その姿勢のまま,おしりを障子にぶつけて政夫を起こそうとする動作はほほえましく,その部屋に踏み込んだ民子を政夫が背後から驚かし,そこから始まる,二人の子どものような騒ぎの演技も生き生きとしている。
劇場公開時の批評では,彼女の演技は否定的と肯定的の両方の評価を受けていて,「役柄相応に持つべきスター性」に欠け,決め台詞も「失笑しか呼ばない」と厳しく評される一方48,「松田聖子をスター扱いせず,化粧っ気のないごく普通の娘として演じさせたことが,この映画にしっかりした骨格を与えている。(中略)演技は硬いが,一生懸命にやっているのは好感がもてる」という好意的な意見も見られた49。
総体的に見ると,松田聖子の演技はプロのものというよりは,素人に近かったと言える。映画研究家のリチャード・ダイアーが言うように,現実の人間の表情やしぐさは曖昧で多義的な解釈に開かれているが,映画では,強調あるいは限定された意味を観客が演技から受け取れるように,その目的に適った表情やしぐさをする必要がある50。それがプロの演技であるが,松田聖子にはそのような資質,あるいは十分な訓練が不足していたと思われる。
映画公開時に話題になった,松田聖子のおでこ露出騒ぎも,この演技力不足が背景にある。松田聖子は今でこそ,額を出して歌っているが,デビュー当時は額を出すのを嫌い,髪型で巧みに隠して自分のアイドル像を創り上げ,それは〝聖子ちゃんカット〟と呼ばれて,若い女性の間で一時大流行し,ある高校の1年生のクラスでは,女子生徒の3分の1がこの髪型をまねていたという証言もある51。だが映画では,かつら姿での演技を余儀なくされ52,おでこが露出したために,『野菊の墓』はその内容以外のところで話題を呼んでしまい53,週刊誌では「『野菊の墓』封切り直前に起きた彼女の〝おでこ〟騒動」と騒がれ54,新聞では「松田聖子は〝聖子カット〟とはうって変わった桃割れ髪で,おやと思わせるほどの変貌」と評されたほか55,当時中高生だったと思われる男子ファンの受けた驚きも,ネット上で数多く回想されている56。
この額への過剰な注目は,それが民子の人物像を構成する一要素ではなく,松田聖子本人を指示する記号として働いていたことを示している。すなわち,演技者が松田聖子であるという,事実ではあるものの,鑑賞中は一時的に保留すべき約束事が崩れていたのである。映画監督の河崎義祐は,「女優の美しさを決定づける重要なポイント」である「髪型とメイキャップ」は,「実世界の人間から芝居の世界の女優として変身する,踏みきり板の役目」を果たすと述べているが57,『野菊の墓』では逆に,露出したおでこが,民子が松田聖子に他ならないことを常に露呈させるように働いたのである。
このように演技が素人でも,そこから物語の世界が綻びずに,『野菊の墓』が作品としての一応の統一性を保てたのは,先述の樹木希林をはじめ,赤座美代子,丹波哲郎,愛川欽也といったベテラン・個性的な脇役陣のおかげであった。この配役は,「アイドル映画」だからこそ,「大人にいい俳優を配役しないと厚みがでない」という澤井の意図的な演出であるが58,松田聖子の素人の演技は,脇役陣による映画らしい演技との対比によって,新鮮さ,若者らしさとして映る効果が生まれたのである。「表情はそんなに豊かなほうじゃないけど,まだ自然で,変な芝居のクセを吹きこまれたりしていない,誰も触っていない状態でしたからね。喜怒哀楽,それぞれの表情が自然に出てくるのでよかったです」という,澤井の好意的な演技評も59,この脇役陣との対比から生まれたものである。なお,このような素人俳優起用の効果は,木下惠介が『野菊の如き君なりき』で実践済みで60,澤井もこの先行作品のスタイルを意識して演出している61。
それでは,前節の議論に依拠して,松田聖子主演の『伊豆の踊子』第7回作品を想定し,彼女がその作品によって,「新人女優の登竜門」を成功裡に通過できたかどうかを考えてみたい。先に映画『伊豆の踊子』の系譜を概観したが,一口に「新人女優の登竜門」と言っても,各女優の俳優歴における出演時期と作品の意義には,相応の幅があった。すなわち,『伊豆の踊子』以前に,すでに多数の出演作を有し,著名だった田中絹代・美空ひばり・吉永小百合を「新人女優」と呼ぶのは適当ではないし,鰐淵晴子と内藤洋子は「新人女優」とは呼べても,子役としての出演歴は二人ともすでに持っていた。映画女優として本当に「新人」と呼べるのは,山口百恵くらいであった(連続テレビドラマには前年から出演していた)。
したがって,全作品に共通するような「新人女優の登竜門」の枠組みを設定するならば,それは個々の俳優歴ではなく,踊子の演技の観点から考える必要がある。原作の踊子像の特徴は,川岸にある共同湯から素っ裸で走り出てきて,一高生(と彼女の兄)に手を振るような,「子供」のように無邪気な側面と,山の茶屋で一高生にお茶を出す際に緊張してこぼしてしまうような,乙女の恥じらいの両側面を併せ持っている点にある。すなわち,文芸評論家の村松剛が評したように,踊子は「女と子供との境い目であり,その意味で二重性をもった女性」として描かれているのである(この二重性のうち,川端は「子供」の方に力点を置いていたと村松は指摘する)62。女優の高峰秀子が16歳の自分を振り返った表現を借りれば,「肉体的には女として成熟していても,精神的にはまだ,子供時代への未練と,大人という『未知』の世界への期待が交錯する不安定な年頃である」63という,少女期特有の揺れる心情である。
この微妙な時期にある踊子をうまく演じられるかどうかが,「新人女優の登竜門」だったと理解できるのだが,この評価基準に依拠するならば,松田聖子は『伊豆の踊子』に主演したとしても,「新人女優の登竜門」を首尾よく通過できなかったと推定される。踊子の人物像の二重性のうち,無邪気な側面は,自然体で表現できたであろうが,乙女の恥じらいの側面は,うまく演技することは難しかったのではないだろうか。山口百恵は踊子の演技について,「黙って相手の目を見たりするしぐさのなかに思春期の多感な乙女ごころを表現しなくてはならないなんて-頭の中で理解できても,それをどうやって表わすかそのへんのコツがなかなかのみこめず苦労しました」と発言しているが64,先述のように,松田聖子に欠けていたのは,ある特定の意味を表情やしぐさから観客に効果的に伝える,そのような演技だったからである。
踊子の子供の側面しか演じられないという推測は,松田聖子のアイドル像の観点からも裏付けることができる。松田聖子のアイドル像は,評論家の小倉千加子が,彼女の楽曲はデビュー以来,「一貫して少女の成長の過程とは無関係に」作られ,歌の中では,「それを歌っている聖子の年齢とは関係なく,いつまでも少女のままなのです」と論ずるように65,大人の女性に成長せずに,少女のままでいることであり(この点も,女としての成長を歌で表現してきた山口百恵と対照的である),それゆえ50歳を過ぎても,今なお「アイドル」と呼ばれるのである66。他方,踊子にとって,少女であることは,やがてそこから抜け出て,大人の女性へと成長していく契機である。この少女という段階の引き受け方の相違に鑑みるならば,「少女」のままのアイドル・松田聖子は,少女から成長しつつある娘の揺れ動く心情をうまく演じられないだろうと考えることができる。
松田聖子がこのように少女期に留まることで見せた,アイドル歌手としての清純さは,映画で要求される乙女の恥じらいの演技とは,性質の異なるものである。評論家の中川右介は,アイドル歌手が「清純」であるという神話は1970年代で廃れてしまったが,松田聖子はその虚構のアイドルの「清純」さを,あえて見え見えに演じることで「新しいアイドル」になり,その姿勢が「ぶりっ子」とも揶揄されたと指摘しているが67,そのような嘘っぽい「清純」が,「アイドルを演じる過程そのものを提示すること」で生まれるのに対して68,『伊豆の踊子』は映画なので,往年の名俳優マイケル・ケインが,「優秀な映画俳優は,演技の成果が,観客によって演技だと見なされないほどに登場人物になる」と述べたように69,演技とは感じられない演技によって,踊子の清純を表現しなければならない。したがって,アイドル歌手として「清純」を見せる演技は,そのままでは映画の世界に持ち込み難いのである。
以上のように考えると,松田聖子の『伊豆の踊子』が制作されていたとしても,その作品は彼女にとって「新人女優の登竜門」にならなかった可能性が高いと思われる。また,その結果,映画『伊豆の踊子』の系譜に対する包括的な評価も,現在のものとはやや異なるものになっていたかもしれない。すなわち,松田聖子が『伊豆の踊子』に主演しても,踊子の人物像を十全に表現しえず,それを歴代女優,特に山口百恵の演技と比較され,その後に一人前の女優にも成長できなかったのであれば,「新人女優の登竜門」には相応しくない作品が,系譜の最後に加わることになるからである。逆に言えば,松田聖子の『伊豆の踊子』が制作されなかった事実が,『伊豆の踊子』映画化の系譜が現在得ている「新人女優の登竜門」という評価を支える要因になっているのかもしれない。
『伊豆の踊子』は「新人女優の登竜門」として6回にわたって映画化されてきたが,最終作品に出演した山口百恵の引退後に,松田聖子がトップアイドルになったことに着目して,彼女主演の『伊豆の踊子』第7回作品が実現していた場合,それが彼女にとって,「新人女優の登竜門」になっていたかどうかを,『野菊の墓』における演技を参照して検討してきた。結論は,現実に松田聖子が女優としては大成しなかったことからも首肯されるように,否定的なものになったが,そのような問いの設定によって,これまで関係性を指摘されてこなかった,系譜としての映画『伊豆の踊子』と映画『野菊の墓』の比較考察が可能になり,「新人女優の登竜門」の意味や松田聖子の演技について新たな理解点を得られたと考える。
※本稿は『比較文化研究』第137号(日本比較文化学会,2019年10月)所収の論文を加筆修正したものである。