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Accumu 最新号・Vol.26-27

親鸞聖人と私

京都情報大学院大学 副学長・教授
KCG高等教育・学習革新センター長
土持 ゲーリー 法一

非僧非俗の世界を生きる

プロローグ

2019年4月に京都情報大学院大学に奉職し,半世紀ぶりに京都に戻った。本務校は百万遍にあるが,京都駅前校舎近くには西本願寺と東本願寺がある。私は55年前に龍谷大学で仏教学を学んだ。「学んだ」というのはいささか語弊があるかも知れない。「善導師」(ニューヨーク仏教会開教使・関法善氏)の勧めで浄土真宗西本願寺の門を潜ったというのが真実に近い。仏教の「ぶ」の字も知らない若造が,突如,寺院に「奉公」に出されたようなものである。幼少から,鹿児島の片田舎で祖父や祖母に育てられ,よく寺参りする子どもであったので,仏教は嫌いではなかった。いまでも白檀の香は心を和ませてくれる。

American Buddhist Study Center (ニューヨーク情報紙「よみタイム」2015年8月7日号掲載)出典:https://www.yomitime.com/080715/0701.html
Photo Courtesy :American Buddhist Study Center (ニューヨーク情報紙「よみタイム」2015年8月7日号掲載)

龍谷大学入学前,出家するため右京区にある中央仏教学院に入学した。この学院は,浄土真宗本願寺派の僧侶を養成する私立の専門機関である。将来,寺院を継ぐ僧侶たちの修行のための教育機関である。したがって,生まれる前,母親が胎内に宿しているときから,読経や念仏を聞き育った「世襲僧侶」たちである。その中に,突然,「黒い羊」が迷い込み,右往左往の連続であった。早朝に「半鐘」で目を覚ますことも幾度となくあった。読経が長く,足がしびれ正座から立ち上がれないこともあった。輪番制で「法話」もしなければならなかった。それでも優しい同朋の助けで,「得度」(仏教における僧侶となるための出家の儀式)を経て僧侶となり,「法一」という法名に変えた。「法一」は,関法善氏の「法」を譲り受けたものである。それまでは「耕一郎」であった。両親が命名した「耕一郎」には,「土を持って耕す」の意味が込められ,将来「農作業」に従事するイメージがあったのかも知れない。後述のように,親鸞聖人が越後に流罪され,農民とともに稲作に汗を流す様から,自らを「非僧非俗」に生きられた世界と重ねるところがあった。

僧籍に入るには,浄土真宗本願寺派の寺院の「衆徒」になり,本願寺に「冥加金」を納めなければならない。幸い,奈良の寺で関法善氏の龍谷大学時代の同僚「住職」が衆徒として受け入れてくれた。

近年,中央仏教学院は再建され,見違えるような建物にリニューアルされている。当時は,古びた日本家屋の共同部屋で,生活そのものが「修行」であった。京都の冬の底冷えはこたえた。それでも耐えられたのは若さと親鸞聖人への「憧れ」があったからである。食事も質素でご馳走とは言えなかったが,なぜか楽しかった。週に何回か,近くの銭湯に行くのが楽しみであった。風呂上がりに牛乳瓶で飲む牛乳の味は格別で至福のひとときであった。番台の美人のお姉さんに会いに行くのも楽しみの一つで,胸の鼓動に青春を感じた。京都での修行は,畳の上の正座の生活を強いられ,和式トイレの苦痛から長いときを経て痔を患い,ニューヨークで手術をするはめになった。

翌年,龍谷大学文学部仏教学科真宗学専攻に入学が許可された。私は在家出身で寺院を継ぐ必要がなかった。真宗学専攻で寺に属さない学生は私一人であった。2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の1月6日(日)放映で,東京高等師範学校のモデルとして龍谷大学大宮学舎が撮影に使われた。私が在学中の1~2年は深草学舎であったが,3~4年の専門課程は大宮学舎(写真)で学んだ。

龍谷大学 大宮キャンパス本館 重要文化財(提供:龍谷大学)龍谷大学 大宮キャンパス本館 重要文化財(提供:龍谷大学)

仏教学を学ぶという大それた考えはなく,ただ人間親鸞聖人の生きざまに関心があった。中央仏教学院で修行したとき,親鸞聖人について学び,話を聞くたびに,そのような「人物」が存在したのだろうか,これは西本願寺が捏造した「歴史上の架空の人物」ではないだろうかと疑った。もし,親鸞聖人のような人物が歴史上に実在したとしたら,どんなに素晴らしいだろう。そして,そのような人間親鸞聖人に会ってみたいという衝動にかられた。

親鸞聖人の泥臭い人間愛で生涯を貫かれた「非僧非俗」に生きる世界が,その後の私の研究者としての道のりにも重なるところがあり,本稿のテーマにした。

なぜ,非僧非俗に魅せられたか

本稿のキーワード「非僧非俗」の言葉の出典は,浄土真宗の教義の原典とも言うべき『教行信証』(後序)のなかの「しかれば,すでに僧に非ず俗に非ず,このゆえに禿の字をもって姓となす」を根拠としている。そののち「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と名のられた愚禿という言葉も,このときをもってはじめて「禿の字をもって姓となす」と言われたものである(注:高田慈昭『非僧非俗の仏道』永田文昌堂,2006年)。ふつう,僧に非ずと言えば俗を意味し,俗に非ずと言えば僧を表すもので,非僧非俗は存在しない。

真実は「中道」にある。「中道」とは釈迦の教えである。世の中は「中道」とは程遠いものがある。自分さえ良ければ他人はどうでもよい風潮がある。最近,アメリカは自国第一主義を強めている。これは「自利」のことしか考えないからである。それでは,他人のことを考える「利他」であれば良いのかというとそうでもない。「自利」と「利他」が「一体化」したものでなければならない。そんなことできるわけない。たしかにできない。それは私たちが凡夫(ぼんぶ)だからである。仏には「自利利他円満」の功徳が備わっている。「自利」と「利他」は半ば相反する行為のようにも見えるが,それこそが真実を究める洞察力である。親鸞聖人が「非僧非俗」に身を置いたからこそ見えた真実の世界がそこにあった。

愚禿釋親鸞,非僧非俗に生きる

親鸞聖人は僧籍を剥奪され,「僧尼令」によって国家に公認された僧侶でなかった(非僧)。しかし,妻帯して法衣をつけたことから俗人でもなかった(非俗)。藤井善信(ふじいぜんしん)という俗名を与えられ,越後国府に流罪された。法然上人も土佐(のちの讃岐)への流人となった。この承元元年(1207年),親鸞聖人は35歳であった。これを「承元の法難」と呼んだ。

『承元の法難』DVDポスター出典:http://www.gobohan.com/goboblog/2009/03/dvd.php
(『承元の法難』DVDポスター)(最終閲覧日:2019年11月27日)

それまでの名は法然上人が授けた「綽空(しゃっくう)」であったが,このときはじめて「親鸞」という名を用いた。親鸞という名は,釈尊,聖徳太子についで崇高した名僧,世親(インド浄土教の祖師)と曇鸞(中国浄土教の開祖)から一字ずつもらったものである(注:梅原猛「『知の人』法然と『情の人』親鸞」『プレジデント』1993年1月号)。すなわち,親鸞という名は,インドと中国の浄土教の流れをくんでいることを強調したものである。越後への流罪こそが,「非僧非俗」に生きた肉食妻帯のはじまりであった。そこでは,もはや伝統的な意味での僧侶ではなかった。流人であった。そして,公然と恵信尼と結婚し,子どもをもうけた。職業的な僧の生き方を拒絶した。しかし,完全な俗人になったかと言えば,そうではなかった。なぜなら,このとき以降,念仏の行者として阿弥陀如来の救済を信じ,その意味を説いて多くの同志をその周囲に集めたからである。親鸞は職業的な僧でもなく,さりとて世俗の人間でもない微妙な求道者の道を進んだ。そのような自己の生き方を指して「非僧非俗」と称した(注:山折哲雄「流刑の地で見た『阿弥陀の大慈悲』」『プレジデント』1993年1月号)。

「聖人」ではなく,「凡夫」として他力本願の教義を広めた。したがって,浄土真宗の教義は,この世俗的な「非僧非俗」に生きる世界で生まれた。当時,肉食妻帯がどれだけ仏門修行者の戒律に反していたか。『歎異抄』には,「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は,万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに,ただ念仏のみぞまことにておわします」との深い述懐の心が読み取れる。

中央仏教学院か龍谷大学だったか忘れたが,「愚禿」の由来を聞いたことがある。「愚禿」とは親鸞聖人の懺悔の表れで,非僧非俗の生きざまを表した。「愚禿」の「禿」の文字に注目してもらいたい。これは越後に流罪された親鸞聖人が農民と一緒に田を耕し,稲穂を天日干ししている様から生まれたもので,「禿」の上部は「稲」を表す。「禿」の下の部首「儿」は,「人」という字の古い漢字である。したがって,儿(ひとあし)(儿脚)を表すもので,あたかも稲穂をかけている様を表している。当時は,出家すれば剃髪であり,それ以外は長髪であった。稲穂の天日干しの頭の部分は,「剃髪」でも「長髪」でもない中間であるところから「非僧非俗」の考えを思いついたと言うのである。親鸞聖人は卓越した文学者でもあった。

親鸞聖人は,「非僧非俗」に生きる自らを「ザンバラ髪」に喩え,愚禿親鸞と名乗った。なぜなら,流人の身分なので一般の在家俗人のように髪を整える「結髪」も許されなかった。下の写真のような稲穂の天日干しの姿であったと想像される。

(美味しい天日干し米・はざ干し米...)写真:https://www.vill.higashishirakawa.gifu.jp/shop/tenpo/10008
(美味しい天日干し米・はざ干し米...)(最終閲覧日:2019年11月27日)

非僧非俗に生きる世界が学問を究めることにつながる

私は関法善氏の導きで,下の写真のように,アメリカ東部ニューヨーク仏教会の開教使となり,その傍らコロンビア大学ティーチャーズカレッジで国際・比較教育を専門とする大学院に籍を置いた。その前,禅宗の大家鈴木大拙氏がコロンビア大学で禅仏教を講義し,東洋思想が注目されたことがあった。出家したものの,西本願寺の衆徒ではなかった。したがって,僧籍はなかった。しかし親鸞聖人の教えを海外で布教するという意味では必ずしも俗人ではなかった。私自身も「非僧非俗」に身を置いたことになる。

Photo Courtesy :American Buddhist Study Center(ニューヨーク情報紙「よみタイム」2015年8月7日号掲載)出典:https://www.yomitime.com/080715/0701.html
Photo Courtesy :American Buddhist Study Center(ニューヨーク情報紙「よみタイム」2015年8月7日号掲載)

京都で親鸞聖人の生きざま「非僧非俗」に生きる世界に憧れて仏門に入ったときには,このような未来を予測したものでなかった。私は,「非僧非俗」に生きる世界こそが,偏らない思考と真実を究めることにつながると信じていたからである。学問の世界も同じである。人間が人間らしく(肉食妻帯)生きてこそ救われると他力本願の教えを会得したからこそ言えることかも知れない。

コロンビア大学ティーチャーズカレッジでは学問におけるリベラルアーツの重要性を学んだ。リベラルアーツの考えに強く魅了されたのは,その根底に仏教の「ニゲーション(Negation)」(否定)の教えがあったからである。「ニゲーション」の考えが,親鸞聖人の「非僧非俗」に生きる世界につながる。親鸞聖人は,「非僧」そして「非俗」と「僧も俗も」否定している。否定を重ねたところに,「僧であり,俗である」ことを強く肯定したことになり,真の「人間親鸞」の誕生であったと味わっている。下の写真は,1980年5月14日の卒業式当日,コロンビア大学ローライブラリー前のアルマ・マーテル像(知の女神)前で撮影したものである。

写真:コロンビア大学ローライブラリー前アルマ・マーテル像(知の女神)の前で(1980年5月14日)写真:コロンビア大学ローライブラリー前アルマ・マーテル像(知の女神)の前で(1980年5月14日)

親鸞聖人は歴史上の人物

二尊院門前に立つ筆者(2019年7月9日)二尊院門前に立つ筆者(2019年7月9日)

親鸞聖人は,歴史上の架空の人物と考える説があったが,京都の二尊院にはそのような俗説を覆す動かぬ証拠がある。本稿の執筆を機に,2019年7月9日に二尊院の門を潜った。親鸞聖人に出会ったような感動であった。親鸞聖人の恩師法然上人は,弟子に「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」を示し,署名を求めた。190名が連署したが,親鸞聖人は87番目に「僧綽空」と署名した。「七箇条制誡」(重要文化財)は「七箇条の起請文」とも呼ばれ,元久元年(1204年)比叡山延暦寺の専修念仏停止の訴えに対して,法然上人以下門弟が言行を正すことを誓って連署し,比叡山に送った七箇条からなる書状である。二尊院本堂には,「七箇条制誡」の写しが置かれ,「僧綽空」の直筆の署名をこの目で確かめることができた。

絹本著色法然上人像(二尊院本堂 所蔵) https://ja.wikipedia.org/wiki/法然絹本著色法然上人像(二尊院本堂 所蔵) https://ja.wikipedia.org/wiki/法然
法然上人「七箇条制誡」に「僧綽空」(親鸞聖人)の直筆署名(二尊院 所蔵)法然上人「七箇条制誡」に「僧綽空」(親鸞聖人)の直筆署名(二尊院 所蔵)

「非僧非俗」の精神と「学問」

「学問」には,「非僧非俗」の精神が不可欠である。学びは問いかけからはじまる。学習は,教わったことを学ぶのに対して,学問は自ら問うて学ぶ。真実を究めるには批判的思考力が欠かせない。コロンビア大学マイケル・ソバーン (Michael Sovern) 学長は,「大学では『定説』を覆すことを新入生に訓示する」と述べている。定説は覆せないから定説だと考える向きもあるが,そのような消極的な態度では何も変わらない,何の発明・発見にもつながらない。最近,ノーベル賞受賞者本庶佑氏も「教科書を疑え」と提言している。「不透明」な時代だからこそ,何ごとも鵜呑みにしない批判的思考力を身につける必要がある。そうでなければ,人間はAIの「ロボット」になってしまう。だからこそ,「問うこと」「質問すること」が重要なのである。

大学にも「非僧非俗」の精神が必要である。私の教育の原点は,親鸞聖人の「非僧非俗」の生き方にある。したがって,学生との関係も,1995年にアメリカで「学習パラダイム」が起こる前から,教員は学生と同じ目線で話し合うことが望ましいと考えていた。これは,親鸞聖人の「御同朋・御同行」(おんどうぼう・おんどうぎょう)の教えと同じである。「御同朋・御同行」とは,膝を突き合わせ,同じ高さの目線で話しかける様であり,このような考えが私の教授法や実践方法の根底にある。親鸞聖人の「御同朋・御同行」の考えが世界に広まれば,新たなグローバル社会が生まれるに違いない。

エピローグ

リベラルアーツは欧米の教育が源泉だと考えるものが多い。たしかにそうかも知れない。しかし,日本にはもっと優れたリベラルアーツの考えがある。『主体的学び』6号(東信堂,2019年)は,「いま,なぜ教養教育が必要なのかを問う」と題して特集を企画した。詳細は,雑誌を参照してもらいたいが,以下のように書いている。

出典:https://www.toshindo-pub.com/book/91563/出典:https://www.toshindo-pub.com/book/91563/

「(前略)リベラルアーツは確かに西洋的発想である。しかし,日本にもそれに似たような考えがある。たとえば,禅宗の考案(禅問答)がそうである。有名な考案の一つに『隻手音声』がある。これは,江戸時代中期の禅僧・白隠和尚が修行僧に問いかけた『両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり,隻手(せきしゅ)に何の音声かある』のことである。 隻手とは片手のことである。片手では打つことができない。音も響かない。その片手の音をどう聴くか。白隠和尚は,修行者を日常的な判断や思考,思慮分別を超えた世界に導いた。そこでは自らに問いかけ,そして『ひらめく』こと以外に解脱(げだつ)への道は見いだせない。解脱とは,仏教用語で煩悩の縛りから解放され,迷いの世界,輪廻の苦を脱して自由の境地に達する悟りのことである。この解放や自由の考えは,リベラルアーツに似ている。このように,考えや思いを瞬時につなげる(コネクション)『ひらめき』がリベラルアーツのエッセンスである。『ひらめく』は,英語の“Intuition”(直観的洞察)に近い。すなわち,リベラルアーツとは,人を解放し自由に発想させる学問ということができる。『ひらめく』には,瞬時に判断して行動できるアクティブラーニングの要素が欠かせない。問うことで真理を極めるのは,仏教の悟りに近い境地で,『ニゲーション(Negation)』と呼ばれる教理である。ニゲーションを経て真理に近づくには,クエスチョン(問答)が欠かせない。(後略)」

本稿の副題「非僧非俗」に生きる世界もまさしく,「ニゲーション(Negation)」が根底にある。それは,何ごとにもとらわれない生き方である。親鸞聖人ほど,人間の真理,仏教の神髄を究めた人物はいない。親鸞聖人の「非僧非俗」に生きる世界は,学問研究のみならず,日常生活の隅々までいきわたっている。

この著者の他の記事を読む
土持 ゲーリー 法一
Gary H.Tsuchimochi
  • 京都情報大学院大学副学長
  • KCG高等教育・学習革新センター所長
  • (カナダ)ビクトリア大学教育学部客員教授
  • (米国)南フロリダ大学マーク・T・オア日本研究センター客員研究員
  • 名古屋大学高等教育研究センター客員教授
  • 文部科学省大学設置審教員組織審査教授
  • 文部科学省大学院設置審教員組織審査教授
  • 元国立大学法人弘前大学21世紀教育センター教授
  • 元帝京大学高等教育開発センター長,同大学学修・研究支援センター長
  • (米国)カリフォルニア州立大学卒,Bachelor of Arts,カリフォルニア州立大学大学院教育学修士課程修了(Master of Arts),コロンビア大学教育大学院修士課程修了(Ed.M.),コロンビア大学教育大学院博士課程修了(Ed.D.),東京大学教育学博士

上記の肩書・経歴等はアキューム28号発刊当時のものです。