「京」という文字から,何を連想するだろうか。多くの日本人は,「京都」を連想するに違いない。しかし,これから話題にするのは別の「京」の話だ。この場合の「京」は「キョウ」ではなく,「ケイ」と読む。2019年8月にシャットダウンされたスーパーコンピュータだ。
スーパーコンピュータ「京」は,2005年,文部科学省が独立行政法人理化学研究所(当時)を主体として開発に着手,翌年,開発実施本部が設置され,国家基幹技術として開発された次世代スーパーコンピュータである。プロジェクトは,1秒間に浮動小数点演算10ペタ(10の16乗)回という性能目標を掲げて開始された。
2009年には,政府の事業仕分けによる中止の危機を乗り越え,2011年にシステムの一部が稼働,同年,高速なコンピュータシステムを定期的にランク付けし,世界で最も高速なコンピュータ500台を選び出すTOP500で,世界最速(1位)を獲得している。システムは,2012年6月に完成し,同年9月より共用を開始。生命科学,創薬基盤,新物質・エネルギー創成,地球変動予測,物質と宇宙の起源と構造の解明といった様々な分野の課題解決のため利用されていたが,2019年8月に後継となるスーパーコンピュータ「富岳(ふがく)」にその座を譲るべくシャットダウンされた。その後,「京」は解体され,同じ場所に「富岳」が設置された。
「京」は,シャットダウンの年においてもTOP500で20位と十分に高速なコンピュータであったため,再利用も検討されたが,底面積80センチ×95センチで,高さが206センチ,重さ1000キロという大型冷蔵庫大の重たいラック864台で構成された巨大なコンピュータであることから,設置場所や,移送費,運用にかかるコストの大きさから断念され,解体されることとなった。しかし,解体された「京」はすべてが廃棄されたわけではない。「京」と書かれた化粧パネルや,CPU,メモリーなどが搭載されたシステムボードなど,「京」のいくつかのパーツが博物館などに展示用として寄贈されたのだ。
KCG資料館(コンピュータミュージアム)は,「京」のロゴが大きく書かれた化粧パネルと,システムボード1枚の寄贈を受けた。大変名誉なことであり,これまでの歴史的コンピュータの保存活動が評価された結果と考えると,嬉しい半面,しっかり展示していかなくてはと,身の引き締まる思いでもある。KCG資料館としては初のスーパーコンピュータの展示物である。
さて,このスーパーコンピュータであるが,科学技術計算用途で大規模・高速な計算能力を有するコンピュータのことであり,そのために最適化されたハードウェア,ソフトウェアを備えるものと定義されている。実は,日本のコンピュータの歴史を語る上で重要な存在でもある。
スーパーコンピュータといえば,コンピュータの歴史を少しでも知っている人ならば,クレイ1(Cray-1)という名前が思い浮かぶだろう。セイモア・クレイ率いる米国のスーパーコンピュータメーカー,クレイ・リサーチ社が開発したスーパーコンピュータである。「世界一高価なイス」とも表現された一部を切り欠いた円筒形の本体の下部を環状のベンチのようなもので取り囲んだ独特の形状を持ち,当時の汎用機とは見た目から異なっていた。ベクトル・レジスタ・アーキテクチャを採用し,さらに自動ベクトル化FORTRANをサポートするなど,大規模科学技術計算を必要とするユーザに広く普及し,以降のスーパーコンピュータの基本構成を確立した。また,当時世界最高速のコンピュータでもあった。
このクレイ1に挑んだのが,日本のコンピュータメーカーである。1976年にクレイ1の第一号機が開発されると,富士通,日立,日本電気などが競ってスーパーコンピュータを開発した。中でも,1983年に開発された日本電気のスーパーコンピュータSX-2は,世界で初めて1秒間に浮動小数点演算1ギガ(10の9乗)回以上の計算能力を持ったコンピュータであり,当時,世界最速のスーパーコンピュータになったが,2年後に,クレイ・リサーチ社のクレイ2に追い抜かれている。
ここで重要なことは,スーパーコンピュータの日米による速さ競争の結果ではなく,この当時,スーパーコンピュータを製品化しているメーカーが,米国メーカーを除けば,世界中で,日本のメーカーだけだったという事実である。世界中のスーパーコンピュータのシェアを米国と日本が争っていたのである。そのため,日本のコンピュータ史に残る日米間のスーパーコンピュータを巡る貿易摩擦事件まで起こり,当時の政治問題になっている。
近年,中国の企業や研究機関がスーパーコンピュータの開発を手掛け,米国と中国間で新たにスーパーコンピュータを巡る政治問題が起こっているようだが,スーパーコンピュータは,今でも,日本のメーカーが国際的な技術的優位性を持つ分野である。
そのような経緯から,KCG資料館にも展示品としてスーパーコンピュータが欲しいところではあったのだが,スーパーコンピュータは通常のメインフレームよりも大きくて重いため,移送や設置に費用がかかり,展示場所の確保も難しいため実現は困難だった。今回,一部のパーツだけではあるが,寄贈を受けることができた。
「京」は2012年完成と,KCG資料館が所蔵するコンピュータとしては,非常に新しいものであるが,国家事業としてつくられた,1台しかない貴重なコンピュータである。10年後,20年後には,今以上に重要な資料となるに違いない。
スーパーコンピュータ「京」の「京」という名前は,一般公募で1529件の候補の中から2010年に選定された愛称で,日本人の使う万進法という単位系で,億,兆の上の単位である京に由来している。これは,10の16乗を示す単位であり,ちょうどスーパーコンピュータ「京」の性能目標である1秒間に浮動小数点演算10ペタ(10の16乗)回の数字と一致することなどから,この名前が選ばれたのだという。「京」が設置されたのは,兵庫県神戸市のポートアイランド内であり,京都との関係は希薄だが,「京」と名付けられたスーパーコンピュータというだけで,親近感を感じてしまうのは,私だけだろうか。
ちなみに,「京」の設置された建物の最寄りの駅は,神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)の「京コンピュータ前」という駅名であったが,スーパーコンピュータ「京」のシャットダウンにより,昨年,「計算科学センター」に改名された。KCG資料館では,この駅に設置されていた「京コンピュータ前」という前駅名を記した鉄道のパネルの寄贈も受けている。