遠山の頂に日のかがやきて
白糸のごと雪崩たつ見ゆ
2020年3月から2021年11月にかけ,思いもかけず日本屈指の山々の雄姿をたびたび目にすることになりました。NASA/AERONET(Aerosol Robotic Network)の大気集中観測を日本アルプス域で実施したからです。NASA/AERONETは世界の97の国と地域約500サイトに同一機種の太陽放射計を設置し,得られた大気放射データをワシントン郊外のゴダード宇宙飛行センター(GSFC)で受信して大気微粒子特性を解析公開する地球規模ネットワークです(https://aeronet.gsfc.nasa.gov/)。
四半世紀を越える歴史を持ち,常時観測以外にDRAGON(Distributed Regional Aerosol Gridded Observation Networks)と呼ばれる集中観測も実施します。文字通り放射計を碁盤目に並べた観測網で,複雑な建造物が集中しているため,衛星データ解析に誤差をもたらす都市域で実施したのが始まりで,日本でも2012年春大阪においてDRAGON/OSAKAを実施しました。
きれいな空気と思われているヨーロッパ・アルプスや中国の山間部において大気汚染が報告されるようになり,日本の山岳域で集中観測をしようとAERONET責任者のBrent Holben博士から持ち掛けられたのがJ-ALPSの始まりです。図2は2019年の3月末,彼と霧ヶ峰高原に立って「ここにしよう」と決めた時の写真です。いよいよ J-ALPSの幕開けです。
縁もゆかりもない日本アルプス界隈に観測サイトを設置依頼する苦労話は,またの機会にして,コロナパンデミックのパンチは強烈でした。この集中観測の名前はDRAGON/J-ALPSと決めました。エアロゾル集中観測をキーワードに異分野協同から新たな成果が生まれることを期待して“Joint work to the AerosoL Properties and process Simulations”を意図したのですが,誰もが「日本アルプスだからJ-ALPSですね」とスンナリ誤解されてしまいました。
DRAGON/J-ALPSは2020年3月から5月実施と決まり,日本アルプス域の雪解けを待って,NASAから3名の助っ人が来日し,2020年2月末の1週間で全12サイトに放射計を設置する段取りとなりました。ところが,突然アッと言う間に広がったコロナパンデミックで,アメリカからの訪日は全面禁止。エアロゾルを捕まえようとして,コロナウイルスのエアロゾル感染の反撃に遭い,あえなく戦い放棄というわけにはいきません。
クロネコ宅急便の上限が30㎏なので,1セット30㎏弱に抑えてはいますが重い機器を雪の残る山岳サイトに設置するのは危険で大変な重労働です。私は日頃のハラスメント論などそっちのけで,「高齢」「女性」を盾に,口は出すが手は動かさないというずるい立ち位置のままでしたが,仲間の超人的な活躍で2020年2月中に12全サイトに放射計を設置しました。
図3にJ-ALPSサイトマップとMt.Happo(八方尾根),Takayama(京都大学飛騨天文台)サイトのCIMEL放射計のスナップ写真を載せます。
新型コロナウイルス(COVID-19)は2020年の世界を席巻しましたが,1年も経てば収まって,2021年にはコロナ禍を克服しているに違いない。NASAのAERONETスタッフも,せめて一度は現地で観測に参加したい。「東京オリンピック2020」も1年延期となったことだし,ということで,DRAGON/J-ALPSも1年延ばして,2021年5月末まで延長となりました。
これは現場担当者には大変な負担でした。2020年秋には冬の積雪に備え,山岳サイトの放射計を全て撤収して機器定期キャリブレーションのためにNASA/GSFCに送り返し,2021年春には,再び全サイトに機器を設置し直しました。ご存じのように,2021年になってもCOVID-19は様々に姿を変え,より強力になって暗躍し続け,日米間の往来は禁止状態のまま。まさにミッションインポシブル!数少ない現場担当は,機器の定期チェックのため,十数回に及ぶ長野(群馬,山梨,岐阜)通いを繰り返し,ようやく2021年11月をもってJ-ALPSプロジェクト任務終了ということになりました。不運ばかりではありません。1年延長のお陰で,2020年春には殆ど移流の無かった黄砂エアロゾルが2021年春にはたびたび日本に飛来するというエアロゾル研究者には,禍転じて福となる幸運もありました。
「エアロゾル(aerosol)はaero(空気の)+sol(小さな粒子が漂っている状態)を表します」と言ったら,余計分かりにくいですね。青い空に白い雲だけが浮かんでいるわけではありません。地球大気には窒素(約78%),酸素(約21%),アルゴン(約0.93%),二酸化炭素(約0.035%)他の気体分子が存在することは誰でも知っています。酸素がないと生きていけないし,地球温暖化問題の敵役は二酸化炭素であることも良く知られています。
これらの他に,エアロゾルと呼ばれる1万分の1ミリにも満たない煙霧状の液体あるいは固体微小粒子が,大気中にフワフワ漂っているのです。中には,春先に飛来する黄砂塵のように色つきで態度のデカイ目立つものもあります。エアロゾルの生成過程は非常に複雑で,自然起源・人為起源・両者の混合と様々な要素が複雑に絡み合っています。例えば黄砂は,中国都市域から放出される人為起源粒子を先ず取り込み,次に東シナ海上にて海塩性エアロゾルを巻き込んで日本上空にやって来ます。エアロゾルは大気中に浮遊する取るに足らないようなちっぽけな粒子ですが,質・量ともに激しく変化して捉えにくい上に,地球環境にとって,けっして取るに足らない存在ではないのです。我々の地球環境リモートセンシング研究グループ(REESIT)は,人工衛星データや地上観測値,実験室データにコンピュータシミュレーションとあらゆる手段を駆使して,この逃げ足の速いエアロゾルを追いかけ続けています。J-ALPSもこの一環です。ここでは,2つの項目に分けてエアロゾルと地球環境について紹介したいと思います。
1990年代に入り,地球規模で環境破壊が進行する中で,最も関心の高い地球環境問題である温暖化予測の不確定要素としてエアロゾルが脚光を浴びるようになりました。地球温暖化は地球システムにおける放射エネルギー収支のバランスが崩れることによって生じます。この収支がプラスになると温暖化が加速して地球が温まること(global warming)になります。温暖化(warming)という表現は生温すぎるから,今すぐ行動しないと,もはや元には戻れない(不可逆的な)状態を的確に指す言葉を使うべきだとして,代わりに,地球灼熱化(hot house Earth)・気候危機(climate crisis)・気候非常事態(climate emergency)といった,もっともな提案がされています。本稿では,一般に馴染んでいる地球温暖化という表現を使いますが,決して温暖化問題を楽観視しているわけではありません。地球温暖化対策に関する国際組織には次の2つがあります。
COPは温暖化対策ルールの策定,IPCCは地球温暖化に関係する科学的知見の集約といった役割を担っています。COPが提案する議定書,例えば京都議定書やパリ議定書は良く知られています。IPCCはIPCCレポートと呼ばれる温暖化に関する評価報告書を作成し,温暖化の現状分析,将来予測等の科学的データを公開します。IPCCレポートの一例を紹介する前に,少し理科の復習をしておきたいと思います。
地球は太陽系の惑星の一つです。当然エネルギーの源は太陽で,太陽の放射温度は約6000K(ケルビン:絶対温度単位)で地球は255Kです(図 4a)。ここで「放射(radiation)とは何ですか?」と聞かれると,一言で説明するのは難しく,二言三言と長々しゃべっても納得してもらえる解答をする自信はありません。私は自分の専門分野という項に,「エアロゾルと放射伝達」と書くことが多いのですが,ここはサラリと教科書の定義を引用することにします。
あらゆる物体は電磁波を放射し,その放射強度は物体の性質と温度に依存する。全波長にわたって放射を完全吸収し熱放射する理想物体を黒体(black body)あるいは完全放射体といい,プランクの法則では放射強度は温度と波長によって決まる。太陽や地球は黒体と仮定できるので,太陽や地球は温度と波長の関数として放射強度が求まることになります。マックス・プランクは物理学者で,ドイツの有名な研究所の名前となり,今も優れた研究者を輩出しています。
地球大気は太陽光で直接温められるのではなく温室効果で温められます(図 4b)。
図5aのように地球に大気(温室効果気体)がなかったら地球は-18℃の低温です。地球に大気が形成され,大気中の温室効果気体によって温められ15℃の適温になった(図5b)わけですから,地球の温室効果は15-(-18)=33℃ということになります。ところが人為活動により温室効果気体が増え,地球が温まり過ぎているのが温暖化です(図5c)。図5からも明らかなように,温室効果気体の完全撲滅が温暖化阻止の答えではありません。温室効果気体がなくなると,地球は寒くて住めない星になるのです。全ての環境問題と同じように,人間活動と自然の最適調和を維持することが重要であり,これは,一人一人の努力が必要な問題なのです。
図6は2021年8月に公表されたIPCC第6次報告書から引用した1850~1900年を基準とした最近10年間(2010年~2019年)の温度変化に与えた要因別寄与温度のグラフです。横軸は要因(温室効果気体,エアロゾル,地表反射,雲)を表し,縦軸は寄与温度(℃)を表します。プラス(赤色表記)が昇温(加熱効果),マイナス(青色)が減温(冷却効果)を表します。一目で,温室効果気体は加熱化に,エアロゾルは冷却化に寄与していることがわかりますが,どちらにも例外はあるようです。図6の赤色鎖線矩形で示した黒色炭素エアロゾルは加熱化に寄与しています。
前にも述べたように,エアロゾルは量も質も多種多様ですが,大きくは海洋性,土壌性,硫酸性,炭素性の4種の成分に分類されます(図7参照)。大気中のエアロゾル粒子は太陽入射光を散乱・吸収(直接効果)し,更に雲粒子となって散乱・吸収に大きな影響を及ぼします(間接効果)。「温暖化予測において大気エアロゾルが地球放射収支の鍵を握っている」とエアロゾル屋が威張る根拠です。
前節で紹介したように地球温暖化問題解決のための渋い脇役として,地味な役割を担って来たエアロゾルが,一躍国際舞台に登場することになりました。それも稀代の悪役として2013年初頭,中国の大都市北京で発生した深刻な大気汚染粒子(PM2.5)問題をきっかけに,世界中が大気エアロゾルに目を向けるようになりました。我が国においても健康影響や環境汚染が大きな社会問題として,新聞・テレビ・ネット・井戸端会議を賑わし,PM2.5(ピーエム2.5)という言葉が定着しましたが,「PM粒子とエアロゾルは同じものなんですよ」と言っても,なかなか納得してもらえませんでした。
2020年2月末に日本に上陸した新型コロナウイルス(COVID-19)パンデミックのエアロゾル感染が長引く中で,ようやくエアロゾルという言葉が日常化してきたようです。勿論この事態は,研究対象としてのエアロゾルの認知以外には決して喜ばしい現象ではありません。図8に大気中にエアロゾルが増えて行く様子を図示しました。
左端は真っ青な空が広がる(エアロゾルの全く無い)日で,太陽光はエアロゾルに散乱・吸収されることなく地上に届きます。この場合をエアロゾルの光学的厚さ(Aerosol Optical Thickness: AOT)はゼロと定義します。図では右に向かうにつれ,大気中のエアロゾル量が増えて行くと考えて下さい。それにつれAOTの値も増し,地上に届く太陽光の量(透過光)が減るため大気は濁って見えます。エアロゾル量が増えると大気の混濁度あるいは汚染度が増すため,エアロゾルは大気質指標(Air Quality Index)とも呼ばれます。PM粒子とエアロゾルは仲間だということがわかっていただけたでしょうか?
エアロゾルは量だけではなく,大きさや質も変わります。図9のサイズ分布を見て下さい。エアロゾルの粒径(球と仮定した場合の直径)は2つのグループに大別できます。2~3㎛(マイクロメーター:千分の一ミリメーター)より大きい粗大粒子と,それより小さい微小粒子です。そこで境界として2.5㎛を採用して,粒径が2.5㎛より小さい浮遊粒子状物質(Particulate Matter)をPM2.5と呼んでいるわけです。図に示すようにPM10という定義もあります。勿論,PM2.5に注目する理由はあります。粒子が小さい程,口や鼻を通して肺に入り込み呼吸器系疾病に与える健康影響が大きいため,小サイズのエアロゾルに格別な注意喚起を促すためPM2.5を強調して表舞台に登場させているわけです。環境省大気汚染物質広域監視システム(そらまめくん)でも,全国津々浦々でPM2.5を測定してデータを公開しています。PM1という極微小粒子測定も可能ですが,サンプルが少ないため統計的なデータ提供には誤差が大きいのが現状です。ウイルスになると更に小さく,先ず気中浮遊ウイルスの捕集サンプラの開発が課題ということになります。新型コロナ感染症 (COVID-19)に対しては,呼吸器由来のエアロゾル飛沫の発生,呼吸器系への飛沫核の沈着,細胞への感染他「エアロゾル感染」予防のための換気やマスクの効果の科学的裏付け,スーパーコンピュータ「富岳」によるエアロゾル飛沫感染シミュレーション等々,医学関係者に限らず多様な分野の研究者が,その解明と対策に取り組んでいます。
エアロゾルの健康影響の話をしましたが,人間だけではなく地球上のあらゆる生体に与える影響を考えねばなりません。図6で,一般にエアロゾルは冷却効果を持つが温暖化に寄与するものもあることを示唆しました。炭素性エアロゾルの中の黒色炭素が温室効果を持つことがわかっています。炭素性エアロゾルと言えば,燃焼による煤煙です。世界のあちらこちらで頻繁に発生するようになった激しい山火事による煤煙エアロゾルに注目が集まり,当グループも衛星や地上データ解析に携わっています。困ったことに森林火災と温暖化は相互助長の関係にあります。
温暖化に伴い乾燥高温化した森林で火災が増え,引き起こされた大規模火災により煤煙エアロゾルが大量放出されて,温暖化が増々進行するという負のサイクルが止まらなくなるからです。北極海の海氷減少とカリフォルニアやシベリア火災の激化頻繁化の相関は,悪化しかない未来を示しています。図10にNASA/MODIS衛星が観測した森林火災(ホットスポット)の図を挙げます。2019年7月31日の一日分のデータにもかかわらず,地球規模で燃えていることがわかります。多くの人や建造物が焼失しました。煤煙により大気汚染が進み健康影響は免れません。アマゾンの熱帯雨林の消滅と多様な生態系の壊滅,オーストラリア固有生物の消失,植物も動物も地球規模の環境破壊に直面しています。
大雨,洪水,土砂災害,寒波,熱波....気象異常は国内だけでも限りがありません。これからの世界では
“with corona” “with the climate crisis”
がニューノーマルとなるのでしょうか??
コロナ禍による入国制限のために,NASA/AERONETのスタッフは日本アルプス域で実施した2年がかりの集中観測 DRAGON/J-ALPSに一度も参加できませんでした。グループマネージャーのHolben博士は2021年英国グラスゴーで開催されたCOP26のスピーチ”How do we know for sure about Atmospheric Aerosols?で,J-ALPS完遂に深い感謝の意を表してくれました(図11:cop26.html)。何年か後(二人共リタイアし,未だ足腰(と頭)が確かなら)霧ヶ峰か安曇野辺りでバードウオッチングでもしながら,彼にJ-ALPSの苦労話をチクリ,チクリと聞かせたいと思っています。愚痴ばかりではありません。山岳地に(苦労して)機器を設置した集中観測のお陰で,貴重な成果を得ることができました。既に,山岳地形が気流(エアロゾルの移流)に与える影響を領域モデルから評価した研究論文が発刊されました。日本の気候変動観測衛星(JAXA/GCOM-C:しきさい)データとJ-ALPS地上観測値の相互検証や,日本に飛来した黄砂が2000m級の日本アルプスを越えられず,長野県の清澄な空気を守っている科学的実証等の研究発表がなされています。J-ALPSデータの成果を摘み取るのはこれからです。
最後になりましたが,J-ALPSにご協力いただいた多くの方々に心から感謝の意を表します。学内紀要解説記事ということで,参考文献やデータの参照,援助いただいた外部資金の明記は割愛させていただきました。