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Accumu 最新号・Vol.24

古を語る星ぼし⑥ 安部晴明の子孫たち

安倍晴明の子孫たち

京都情報大学院大学教授 作花 一志

はじめに

今年(2016年)の正月初詣には晴明神社に行った。この神社には1年に数回訪問しているが,お年始としては初めてである。すると図1のような絵馬が目に入った。筆者をはじめ京都の天文屋には安倍晴明ファンが多いが,昨年から晴明ファンに新しい層が加わったようである。フィギュアスケートというより羽生選手の女性ファンである。泉下の晴明さんもよろこんでいるだろう。それにしても一介の陰陽師がなぜ千年も人を惹きつけるのか?アイドルとなったのは今世紀に入ってからだが,平安時代から大鏡,今昔物語などの作者のみならず,狩野元信や葛飾北斎にも絵筆を持たせているまさに千年のヒーローだ。ところが彼は実は中級技術官僚だったという実像はあまり知られていない。

図1
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1 陰陽寮

図2
図2

図3
図3

陰陽師とは律令体制の中の国家公務員で,その役所は陰陽寮と呼ばれた。当時の大内裏は図2の赤線の中で,その中心である大極殿は千本丸太町の辺りにあったらしい。陰陽寮はその東にあったが今それを語る跡はない。陰陽寮の統括者は陰陽頭といい,その下に4つの部署があり4人の博士(いわば部長)がいた。彼らの役目は図3の通りで,天文博士は天変チェックのため毎晩定時観測をしなければならない。天文の部署は20人足らずだから,10日に1回は夜勤が回ってくる。天変は天からの警告だからそれを見逃すと解任左遷という処分がありうる。相当キツイお役目である。

古代中国の夏王朝では天文官が酒を飲んで日食予測をサボったため処刑されたという記載が公式史書にあるそうだ。これじゃ天文業務は命がけだ。一方,暦博士は次年度の暦を作るのだから毎日毎日煩雑な計算ばかり,太陽太陰暦では24節気と月齢を求めねばならないので,さぞかし大変だっただろう。教科書としては中国各王朝の律暦志と膨大な数表で,分数は知っていたようだが小数の知識はなかったようだ。また算盤みたいなものあったのだろうか?暦の作成頒布は帝王の専属特権であり暦博士はそれを代行しているので責任は重い。いずれにせよ陰陽師の本務はジミな中級技術官僚で,物語やマンガに出てくる姿とは程遠いのではないだろうか。安倍晴明は64歳にして時の権力者である藤原兼家と接触し,遅まきながら出世街道を登っていき,やがて御堂関白藤原道長の厚い信任を得るようになる。その過程はアキューム20号に述べた。しかも晴明の子孫は代々天文博士の地位を世襲していくのである。

2 客星の目撃者

図4 安倍・土御門家系図
図4 安倍・土御門家系図

藤原定家の日記である明月記には8回の客星出現記録が載っており,そのうち3回は超新星出現(1006年,1054年,1181年)の生記録である。超新星とはチョー新しい星ではなく,重量級星の最期の大爆発で(もっともその後でもパルサーやブラックホールとして,しぶとく生き残るが)星の一生のうちで最も華々しい現象である。それを実際に観測したのは安倍晴明の子孫である陰陽師たちだ。1006年の超新星は晴明の息子である吉昌が観測記録しているが,安倍家の血統はもう一人の息子吉平が継いで行く。この二人,どちらが長男か次男か?嫡子か庶子か?それは小説家にお任せする。1054年の超新星(かに星雲の元)出現時の天文博士は時親のはずだが,この人何をしたのかさっぱりわからない。1181年の天文博士は泰親で鳥羽上皇,後白河法皇,摂関家から信頼された有名人だったが超新星を目撃したという記録は無い。彼は鳥羽上皇の寵姫玉藻御前の正体が七尾を持つ白狐であることを見抜いたことで有名だ。この狐は天竺マガタ国,古代中国の殷周にも現れ,遣唐船に紛れ込んでわが国にやってきたという。京を脱出してから東国に現れ那須で大軍と戦い…というとんでもない壮大な物語なのでここでは触れないが,興味のある方はぜひ真如堂に「殺生岩鎌倉地蔵」を訪ねてみてください。

鎌倉時代になって泰俊が藤原定家の要望に応えて客星出現の記録を調べたことは前回のアキュームに書いたので省略する。鎌倉時代には陰陽師は鎌倉にも下向し都と同じような祭祀を行っていたそうだが天体観測をしたかどうかはわからない。幕府の歴史書である『吾妻鏡』にもこれらの客星について記されているそうだが,情報源は『明月記』と同じようである。

武士の世になって陰陽師は用なしになっていくのだろうか?いやそうではなく,室町三代将軍義満の時代に有世は公卿に列せられ土御門と名乗り,従二位まで昇進する。これより土御門家は足利将軍家にも仕えることとなる。戦国時代から江戸時代初期にかけて出現した2つの超新星出現(1572年,1604年)の記録はヨーロッパにある。いうまでもなくチコ・ブラーエとケプラーの観測によるものである。ところが日本では見つかっていない。平安時代の3件の記録が日本にあるのは誇るべき偉業なのになぜこの時期の記録はないのだろう。陰陽師は天文観測をしなくなったのか?戦国の世でそれどころではなかったのか?当時の天文博士は有脩,久脩のはずだ。戦国時代には他の公家と同じく地方の有力大名のところへ疎開して,土御門家は若狭の名田庄と京を行き来していた。チコ・ブラーエの超新星が出た1572年は武田信玄が大軍を率いて京に上ってくる年で,それに挑んだ家康は完敗,信長は京で孤立状態だった…ところが信玄の急死で武田軍は帰国し信長は辛うじて窮地を脱した。またケプラーの超新星の出た1604年は戦乱が終わり,江戸幕府が開かれた翌年である。家康はこの両方の天変に遭遇しているが,彼は天文に興味を示した気配はない。

3 本能寺の変と改暦

本能寺の変は日本史で重要な事件で今年もNHK大河ドラマで登場した。この変の起こった六月二日という日付は旧暦で,ユリウス暦では6月21日だ。だから1582年6月21日あるいは和年号で天正十年六月二日と言うべきで1582年6月2日という混合表記はおかしい。

旧暦二日といえば前日は一日…新月…もしや,そう実は日食だった。しかし雨のため見られなかったが『天正十年具注暦』なるものには,ちゃんとこの日の日食が予告されていた。この暦は朝廷の陰陽師が作っていたもので,これを見た公家たちは日食を知っていた。そして中国出陣を延期するよう信長にアドバイスした迷信深い公家もいたことだろう。信長が京都に来たのは明智光秀を従えて,毛利攻めに出発するためだった。しかし信長のこと,たとえ日食を見てもそんな忠告など聞かなかったでしょうね。それどころか後述のように非常に天変が多いこの年に,彼はあえて出兵して戦いに勝利している。信長がこれらの天変に無関心なのにポルトガルから来た宣教師ルイス・フロイス(1532–1597)は驚いている。

本能寺の変の直前には織田軍は多方面で戦闘を繰り広げていた。

  • 柴田勝家は越中魚津城(上杉方)を包囲
  • 滝川一益は上野厩橋で上杉の背後を狙う
  • 羽柴秀吉は備中高松城(毛利方)を包囲
    そこへもうじき信長・光秀が大軍を率いて来る。
  • 三男織田信孝と丹羽長秀は四国の長宗我部攻めのため大坂で渡海準備
  • 比叡山や本願寺とはいまだに緊張状態

当時の本能寺は四条堀川,現在の堀川高校あたりにあり,広大な敷地に多数の塔頭・大伽藍を有していた。上杉・毛利・長宗我部を徹底的に叩き天下統一は目前と見えた信長だったがあっけない最期。信長は炎の中で自害して明智軍は遺体を捜せなかったといわれているが,実は阿弥陀寺の清玉上人がいち早く遺体を運び出して埋葬したそうだ。実際,阿弥陀寺(寺町今出川上がる)に行ってみると信長・信忠父子や森蘭丸兄弟の墓があり,本堂には木像もある。

その後,織田家では羽柴秀吉が柴田勝家を倒して跡目争いに勝つことは周知のとおりだが,その隙に誰よりも領土を拡大したのは徳川家康である。かつての武田領と今川領を併合して,わずか半年後には上杉・北条を上回るほどの大大名になっている。家康の本音はこれらの土地を併呑し織田家から完全独立することだったと思えてならない。本能寺の変の原因は明智光秀の個人的な怨念・野望によるものとされて,真相は闇のままだが,それは勝者(秀吉や家康)の勝手な論理。黒幕候補としてこの2人よりももっとアヤシイ人々がいて,そこになんと暦が関係してくるのである。

この変より9年前に信長は自分が担ぎ出した足利義昭を室町将軍から追放して,ここに室町幕府は終わる(義昭は征夷大将軍を罷免されたのでも辞任したのでもないので形式的には毛利領内で継続している)のだが,その時朝廷に強要して元亀から天正へ元号を変えさせている。これは改元の権限を奪うもので,朝廷へのものすごい干渉なのだ。そして天正十年(1582年),武田へ出兵の前に公の京暦(平安時代から使われていた宣明暦)を三島暦(当時尾張美濃で使われていた)に変えるよう若くして天文博士になった土御門久脩(1560–1625)に伝えた。三島暦のほうが正確というわけではなく,変更は閏月の置き方で,宣明暦では翌年一月の後に閏正月を置き,一方三島暦では年末に閏十二月を置くというだけのことだった。ところが京の公家衆からするととんでもない越権行為,もしそうなれば陰陽寮の役人は当然総入れ替え,その次に来るのは朝廷人事への口出し,左大臣右大臣も藤原氏ではなく信長の息のかかった者になり,そしてついには天皇の即位退位にも信長が干渉してくるに違いない。朝廷は関白・太政大臣・征夷大将軍のどれでも与えるという妥協案を示すが信長は無視したまま。すでに武田を滅ぼし毛利・上杉・長宗我部ももうじき制圧する勢いの信長はしつこく三島暦の採用を迫る。正親町天皇,近衛前久をはじめ公家たちはオロオロ生返事。朝廷乗っ取りだ,もうやるしかない,そこで極秘のうちにできていた信長包囲策が動く。謙信のいない上杉や,元就のいない毛利では頼りない。そこで織田家中の者にやらせよう,実行は光秀にその後は秀吉か家康に取り代えればいい,それとも義昭を返り咲きさせるか,…なんて構想を描くのはやはり武家ではなく公家らしい。結果的に改暦は回避され,雲上人の思惑はうまくいった。大役を果たした光秀をさっさと見限り,家柄のない秀吉に莫大な金銀で高位高官を買うのを推奨し,彼らはめでたく生き延びた。後は知らん顔というのは源平時代からの得意技だ。上杉・毛利・長宗我部・本願寺だけでなく危ういところで助かり狂喜した勢力は多数あったのだ。

本能寺の変は誰の仕業というより秀吉+家康+光秀+朝廷高官+その他みんなグルの結果と考えたらどうでしょう。

4 天正十年の天変

信長は短い人生のうちで様々な天変に遭遇しているが,残念ながら彼がこれらを見たという記録は残っていない。

1564年6月25日の五星集合

日没直後で見にくかったせいか記録はない。30歳の信長は尾張を統一し美濃攻めに明け暮れしていたが,この3年後に制圧し以降岐阜を本拠地とする。岐阜の名は僧沢彦(たくげん)の案によって,古代中国の周王朝の発祥の地である岐山(長安の西)からとったと言われている。周が殷を滅ぼして天下を取る前,BC1059年にも水星・金星・火星・木星・土星の五星が一堂に会して新王朝到来を予告したことを信長は沢彦から聞いて知っていたのではないだろうか。さらに彼の没年の前半には天変が連発している。

3月8日のオーロラ

京都でも安土でも赤気(オーロラ)が見えたという記録がある。低緯度オーロラは珍しい現象だが,わが国の記録は意外に古く『日本書紀』によると推古時代の620年に現れている。また1204年の赤気出現のことは『明月記』に白光赤光相交奇而尚可奇可恐々々と書かれている。やっぱり藤原定家はただの歌詠み,古文書収集家ではない,天文・気象現象に並々ならぬ好奇心を示す文理両道遣いだ。オーロラと言ってもカナダやアラスカで見られるような「緑のカーテン」ではなく,低空に赤と白の光がさして,山火事のように見えたそうで気味が悪かっただろう。…。1582年に安土にいたルイスフロイスは赤く染まった空について詳しく本国へ報告している。

5月13日には彗星出現

日没後北西の空に地平からほぼ垂直に立っていたそうで,多数の人が見た記録がある。またヨーロッパではチコ・ブラーエが詳しく観測している。

5月19日には光り物が現れた

大流星,あるいは火球らしいが詳細不明。

6月20日には日食

その皆既ゾーンはアラビア半島〜北インド〜中国南部〜太平洋を走り,石垣島なら皆既が見られたはずだ。京都でも15時半ころ約6割欠ける部分食が見えたはずだが,実は雨(梅雨のさなかですからね)で見られなかった。もっともこの時代には日食のカラクリはわかっていて,もはや脅威・驚異の対象ではなかった。

10月にはユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦

グレゴリオ暦とは言うまでもなくローマ教皇グレゴリウス13世が制定公布した暦で,閏年の置き方が現在のように改良された。それまで使われていたユリウス暦10月4日(木曜日)の翌日はグレゴリオ暦で10月15日(金曜日)となり,10日間は空白である。グレゴリオ暦はローマカトリック系の国(スペイン,ポルトガル,フランス,イタリア・南ドイツ諸都市・諸国など)ではすぐに採用された。しかしプロテスタント系の国(イギリス,スウェーデン,北ドイツ諸国など)では約200年も遅れ,イギリスでは(植民地だったアメリカを含む)1752年からである。最も遅れるのは東方正教教会系の国(ロシア,ギリシアなど東欧)で,第1次世界大戦ころまでユリウス暦を使っていた。どこでも暦の制定・改変にはさまざまな因習・利権が絡んでいるようだ。アジア諸国は19世紀後半〜20世紀初に太陰太陽暦から太陽暦に切り換えるが,ユリウス暦は使っていない。わが国で太陽暦が採用されたのは明治6年(1873年)からで,正確には旧暦の明治五年十二月二日の翌日がグレゴリオ暦の明治6年の1月1日になった。

ところで,そのとき久脩は何をしたのだろうか?実は朝廷内の意向を光秀に伝えていたのではないだろうか?若狭に行くふりをして実は光秀の城下亀岡に行ったのかもしれない。それとも西暦のことを考えていたのかもしれない。俊才の彼のこと宣教師から聞いて西暦のほうが優れていることはすぐに理解できたと思う。宣明暦であれ三島暦であれ,太陽太陰暦では閏の置き方がややこしい。閏月の置き方は19年間に7回というのが古からの習慣だが,296年間に109回,315年間に116回…と精度のよい置閏法はいくらでもある。その点,西暦では簡単だ,ただし月齢は無視されるので日付だけでは月の状態はわからない。立場上,宣明暦擁護ではあるが内心は西暦導入。信長の強圧的要求も公家たちの消極的反抗もばかばかしいと思っていたのではないだろうか。もしも本能寺の変が失敗に終わり,信長が生き延びていたら一挙に西暦を導入したかもしれない,イギリスより早くグレゴリオ暦を。

久脩は秀吉の世になっても生き延びたが秀吉に晩年,秀次事件に連座して多数の陰陽師が尾張に追放されるという事件が起こる。ところが関が原の戦いの後,ちゃっかり都に復帰している。家康から梅小路(水族館あたり)に広大な土地をもらい,現在まで続いている。さらに家康・秀忠・家光の徳川将軍宣下式を司るという大役をこなし,豊臣滅亡後には従三位まで昇進する。どうみてもタダのお公家さんではない。戦国の世を逞しく生き抜いたしたたかな陰陽師である。偉大なる先祖,晴明が藤原兼家・道長の厚い信任を得て安倍陰陽家を創設したのに倣ったのか!

陰陽寮制は明治二年の太政官制度廃止まで続くのである。

参考文献

  • 斉藤国治 『宇宙からのメッセージ』 雄山閣 1995
  • 作花一志 『天変の解読者たち』 恒星社厚生閣 2013
  • 斎藤英喜 『陰陽師たちの日本史』 角川選書 2014
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作花 一志
Kazuyuki Sakka
  • 京都情報大学院大学教授
  • 京都大学大学院理学研究科宇宙物理学専攻博士課程修了(宇宙物理学専攻)
  • 京都大学理学博士
    専門分野は古典文学,統計解析学。
  • 元京都大学理学部・総合人間学部講師,元京都コンピュータ学院鴨川校校長,元天文教育普及研究会編集委員長。

上記の肩書・経歴等はアキューム24号発刊当時のものです。